教文館は各売場が<ものすごい特色がある>(あり過ぎる?)ので他の部へ異動ということはあまりないのですが
(と言いつつ、ワタクシはキリスト教書部→雑誌→書籍と流浪の旅をしてまいりました)
和書部の素敵女子のひとり、小原が4月1日付けで3階へ異動になります。
強力メンバーが抜けてしまうのは店にとっても大きな戦力ダウンなのですが、小原はいつもニコニコ、
優しく穏やか、癒しの存在でもあったのでとてもカナシイよ・・・。ワタクシ、イラッとしたときには、
ああ~彼女を見習わねばっっ、と自分に言い聞かせていたのです。でも小原にとっては希望の異動なのでここはみなさん、
明るく送り出してあげましょう!2階から3階に移るだけなんですし。
というわけで先日、ちょっとしたお別れ会を女子チームで開き、楽しく過ごしたのですが
<ものすごく食べちゃって><年のせいで消化が遅い>ワタクシ、夜は眠れないし、
翌日も満腹感いっぱいで「昔はこんな量、どんとこいだったのに・・・」と喪失感に襲われ、
いつの間にか小原異動のカナシサより己の過ぎ去った年月が無性にカナシクなり<カナシサ本末転倒>
となってしまったのであった・・・。小原さん、ゴメンナサイ。今までいっぱい助けてくれてありがとう。
これからも衰えてゆくワタクシをどうぞよろしく。(介護か??)
自分の書いたものを一人でも多くの人に読んでいただけたら、この上ない幸せである、
とつねづね思っているのであるが、さていったいどのくらいの人々が読んでいるのだろうか。と問うたとき、
「まあそんなにはいないだろう。」と考えるのが妥当であるかのようであるが、はたしてそうだろうか。
というのは、そんなには、と言えばそれでもある程度の読者がいると思っていることになるからで、
いまさっき人々、と書いたが、人々、といえるほど読まれているのかどうか、はなはだこころもとないことであるし、
「いやあボクの書いたものなんて、誰も読んでませんよ、へへへへへ。」なんて、謙遜自嘲したとして、
それが謙遜でも自嘲でもなくて、事実そのままありのままであった、ということも大いにあり得るのだから、
私は何のために書くのか、と自問自答し、頭髪を掻きむしって悩み苦しむ、ということはないにしても、
己の書いたものを己ひとりだけが読んでいるのかもしれないと思うと、自分で自分が気色悪くならないこともない。
もっとも、私が書いたものを読んでいる人がいるのはわかっているのである。
わかっているのであるが、それが社内の人ばかりであるならば、読んでくれるのはうれしいけれども、
内輪で回覧しているようなものであるから、これを自分の読者として数えるのは、人道に悖る所行であろう。
人道主義を貫いて、社外へ一歩足を踏み出した私の前に広がっていたのは、無人の荒野であった…というのは昨年までの話。
今年に入ってから、めでたいことに私は読者を三人獲得したのである。のである、と言ったところでたった三人ではないか、
おめでたい奴だ、と思われる方もいるであろうが、これを三人しかいないと考えるか、三人もいると考えるかでは、
大きな違いがあるのである。
かつて、作家石川淳は、自分の読者は三千人もいればじゅうぶんだと言った。偉大な作家の文業と
、一介の書店員のおっさんが綴る拙い作文を比べるのは笑止千万、嘲笑冷笑失笑ものであろうが、
ここはひとつ石川淳にならって、というよりも、石川淳の千分の一スケールで、
「読者は三人いればじゅうぶんですよ、わっはっはっはっは。」と豪快に笑っていたいところである。
だが読者が三人もいるということは、気を抜いて鼻毛を抜いたりなんかして過ごしていると、
それが減る可能性もあるということでもあるのだから、まずこの数少ない貴重な読者を失わぬようなものを書きつづけ、
書店人の日々を生き長らえたいと思う。
人を見た目で判断してはならない、とはよく言われることで、書店の業務においてもまたしかりであるから、
お客様から問い合わせがあった場合には、その言葉によって適切に対応しなければならないのは当然のことであるが、
その意味がわからないというよりも、どちらのことを言っているのだろうかと迷う言葉があって、それが「タンコウ本」である。
「タンコウ本」といったら本の業界にいる人や、読書家の方であれば、ご存知であろうと思うが、
「単行本」であって、雑誌や全集や叢書にたいし、その本だけで単独に刊行される本のことである。そんなことは常識だと
思われるかもしれないが、なぜカタカナで書くかというと、それがどうも業界内で通用する常識にすぎず、
世間一般にはあまり浸透していない言葉のようだからである。
たとえば、「○○という作家のタンコウ本を…」ときかれて、なにげなく単行本のほうに案内すると、
「いや、タンコウ本の…」と言われて、この人は文庫のことをタンコウ本と呼ぶと勘違いしているのだな、
と気づき、文庫の棚に案内する。ということになるのだが、こういうケースが稀にしかないのであればそんなに
気にならないのであるけれども、「タンコウ本」を探しているお客様がじっさいは文庫本を求めていることがかなり
多いのであって、書店人はその対応に苦慮しているのである。
お客様から「タンコウ本」という言葉が発せられると、書店人には、さっ、と緊張が走る。どっちだろう?
の息詰まる(間)。ののち、さぐりさぐり判断するということになるのだが、その過程にも、
書店人の胸のうちには激しい心理的葛藤があるのである。こちらとしては「タンコウ本」が「単行本」で
あることには自信があっても、お客様の言う「タンコウ本」が「単行本」であるかどうかについては自信が持てないのであって、
それでも書店人の常識に従えば「単行本」なのだから、ためらいがちに単行本の棚に案内してお客様の顔を見ると、
怪訝な表情が浮かんでいて、こちらが間違えたわけでもないのに、「わちゃー、失敗した」なんて思って
しまったりするのである。
そんな失敗ではない失敗を繰り返さないためにはどうすればいいのだろうなあ、と考えると、
夜も眠れない。ということはないのであるが、お客様に「それはタンコウ本ではなくて文庫というのである」
と正面切って指摘するのは論外としても、「文庫ですね?」とやんわり訂正し、知識の普及につとめるか、
いや、そもそも「文庫」という言葉を知らないのかもしれないから、「小さい本ですか?」と言いかえるか。
ここにも迷いが生じて、しかもお客様の外見からは「タンコウ本」がはたしてどちらなのか見当がつかないけれど、
それでも失礼ながらどこか見た目で判断してしまったのだろう、うっかり「小さい本ですか?」なんて言ったりして、
それが「単行本」だったら、「なんだ、こいつは単行本と文庫を勘違いしているのに加え、文庫という言葉さえ知らないのか。
バカ者めが。二度と来ない」という大惨事に発展してしまうかもしれない、などと想像すると、
迷いはいっそう深まり、迷いのあまりぼんやりして、ふと我に返ってお客様の顔を見ると、
怪訝な表情が浮かんでいて、出口なしの迷宮入り、ドツボにはまってとっぴんしゃんである。
それもこれも「タンコウ本」という発音が正しいから間違いが起こるのであって、
明らかに間違っていれば、かえって都合がよいのである。というのは、たまに「○○のタンコ本を…」
という問い合わせがあるからで、これならすぐにお客様を文庫の棚に導いて一件落着。と言いたいところであるが、
こんどはなぜ「タンコ本」なのかが気になってしかたがない。タンコ本タンコ本…と繰り返しているうちに、
ついに丹古母鬼馬二になってしまうのであった。丹古母鬼馬二が頭の中をめぐり、またぼんやりしていると、
別のお客様からの「タンコ本」の問い合わせに、思わず「丹古母鬼馬二ですね?」と答えてしまいかねないから、
つねに気を張って接客をしなければならないと思う。と、まとめたつもりになっても、「タンコウ本」を
どうするかという問題は、いっこうに解決の糸口を見いだせぬまま残されたのであり、かくして書店人の
苦悩の日々は続き、今日も私は「タンコウ本」の声に、店内を迷走するのである。