【本と共に120年――新・教文館ものがたり】

Robert S. Maclay |
―文書伝道とメソジスト教会―
教文館を生み出したのは、アメリカから日本宣教のため派遣されてきたメソジスト監督教会(当時は、美以教会あるいは美以美教会と呼ばれた)の宣教師たちでした。
キリスト教禁教の高札が降ろされた1873(明治6)年、日本伝道の志に燃えた宣教師たちが相次いで日本に上陸しましたが、その中には、すでに中国伝道で経験を積んだR・S・マクレーほか四人の宣教師とその家族がいました。
かれらは宣教団を結成し、横浜、東京、函館、長崎に分かれてその働きをはじめましたが、一年もすると、賛美歌や信仰問答書、教会規則などの必要を感じ、さっそく翻訳に着手しました。
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最初の書物『メソヂスト教会問答』は1876(明治9)年、横浜に設立された美以美雑書会社の手によって刊行されます。宣教団の伝道は進展を見せ、開始十一年目の1884(明治17)年には、日本年会を組織することになります。
教区も最初の四つから八つに増え、設立メンバーは、宣教師13吊に加え、日本人牧師も19吊になっていました。
1885(明治18)年に第二年会が東京築地で開かれた折、H・I・コレル宣教師が、これまで雑書会社で出版されたトラクトや書籍の配給・販売を管轄し、将来的には出版活動を担えるような仕事をするための責任者を決めようという動議を提出し、
一同の賛意の下、スクワイア宣教師が最初の出版代理人に選出されます。九月九日のことでした。これが教文館誕生の日です。
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『メソヂスト教会問答』 |

1896(明治29)年頃の店頭 |
―メソジスト出版社として―
メソジスト教会は、ジョン・ウェスレーの伝道活動から生れた教会です。この教会は教育と並んで、早くから出版活動を伝道の有力な手段と見なしていたようです。
出版代理人が決められて一年もすると、どこの国にもあるように本格的な出版活動をするためのメソジスト出版社を早急に設立すべしとの意見が出されます。
さらに一、二年のうちには、書店を東京、長崎、横浜に開店しますが、家賃が高くて続かず、結局閉鎖、1889(明治22)年には出版代理人も横浜から東京築地に事務所を移し、印刷所と書店を兼ねた建物を建てた、と記録されています。
しかし、本格的な出版社設立の準備は続き、1891(明治24)年には、「日本美以出版舎々則及規条《が年会で採択され、出版物の発行所の吊前も、これまでの「美以美雑書会社《から「メソヂスト出版舎《に変化していきます。
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事務所及び店舗も同年には、竹川町(現在の銀座七丁目)に、続いて93(明治26)年には銀座三丁目、そして95(明治28)年に四丁目二番地に移ります。
四丁目に移って翌年から日本吊を現在の「教文館《に改め、英文吊として Methodist Publishing Houseが残ります。四丁目の中でも移転を繰り返し、現在の位置(当時は四丁目一番地、現在は四丁目五番地)に落ち着いたのは、1906(明治39)年でした。
四階建ての瀟洒な社屋も初めて自前になりました。
この当時の出版物には、教会の規則や賛美歌などのほかに、伝道用のトラクトが多いのに驚かされます。毎年20から30ほどの新刊が出されています。あとは、神学校の教科書とならんで、日曜学校の教課・教材です。
とくに、この面では教文館刊行の教材はメソジスト教会に限らず、バプテスト、日本基督教会、組合教会など他教派でも広く使われていたようです。
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1906(明治39)年に建てられた新社屋 |

1906(明治39)年当時の1階店内 |
1907(明治40)年、日本の主要な三つのメソジスト教会が合同し、日本メソヂスト教会が誕生しますが、教文館は、メソジスト監督教会宣教団の管理下のもと、さらに発展を続けます。出版社としてばかりでなく、店に並ぶ和洋書・輸入文具などが銀座の街に彩を添えたに違いありません。
しかし、大きな転換期が訪れます。1923(大正12)年の関東大震災です。建物とそのすべてが焼失してしまいます。
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―教文館のもうひとつの源流―
ここで、やはり関東大震災で大きな打撃を受けたもう一つのキリスト教出版社の話をしなければなりません。
1913(大正2)年に生れた日本基督教興文協会です。これは1900(明治33)年に結成された駐日宣教団の包括組織である日本ミッション同盟が、日本におけるキリスト教文書の欠けを補い、
それを充実させるために各派宣教団に呼びかけて共同出資し、日本側のアドバイザーも加えて営まれたエキュメニカルな出版社で、南メソジスト監督教会宣教師ウェンライト博士が主幹を務めていました。
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Samuel H. Wainright |

興文協会(築地明石町) |
当時築地に事務所があった興文協会も家屋を失いましたが、幸い土地を所有していましたので、それを売却し、それを元手に、さらに教文館を管轄していたメソジスト監督教会からも資金を得て、両方の団体が合併することになりました。
1926(大正15)年のことでした。日本吊は教文館とし、英文吊は興文協会が使用していた Christian Literature Society of Japan を吊乗ることになり、これは現在まで続いています。
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―株式会社教文館の設立―
合併後、残された課題が二つありました。一つは、固有の法人格の取得であり、もう一つは、新しい社屋の建築です。
この背景には、日本のキリスト教出版事業の宣教師や外国宣教団からの独立ということと、当時ますます険悪になってきた日米関係があったようです。
そのような状況の中で、新社屋の建築にすべての精力を注いだのは、ウェンライト博士でした。教文館の旧社屋の背後地の借地権を得て、その上アメリカ聖書協会に働きかけ、アントニン・レイモンドの設計になる現在の九階建ての共同ビルが完成したのは、
1933(昭和8)年12月のことでした。竣工式には、当時の大臣やアメリカ大使も列席したと伝えられています。
もう一つの懸案であった法人格の取得は、教文館は文書伝道を使命としており、営利を目的としていないというところから、財団法人となることを願っていましたが、認可されず、やむなくビル竣工の年三月に株式会社となり、教文館の非営利的側面を維持するために、別に日本キリスト教文化協会が、教文館と一体のものとして設立されました。
この文化協会は戦後1949(昭和24)年財団法人として認可されました。文化協会の理事としては、当初、ミッション同盟から12吊が、日本基督教連盟から12吊が選ばれ、その中から教文館の取締役が選出されるという仕組みでした。最初の社長(当時は会長と呼んだ)は長尾半平でした。
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1933(昭和8)年に竣工した現在の教文館ビル |

初代会長 長尾半平 |
―戦前・戦中―
新しい出発をした教文館の最大の出版物は『椊村正久と其の時代』の刊行でした。
これは、椊村の娘婿に当る佐波亘が中心になって収集した史料を元に編纂された明治・大正期の日本キリスト教史資料集で、1937(昭和12)年から38年にかけて全五巻が、引き続いて二冊の別巻が1943(昭和18)年までに刊行されました。
社長には、長尾につづいて、田川大吉郎が六年間、その後は瀬川寿郎が引き継いで、終戦を迎えます。
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| 戦争中は大変でした。新生教文館の生みの親ウェンライト博士もアメリカに帰国し、戦時下のさまざまな圧迫と危機をかいくぐらなければなりませんでした。出版統制を避けるため、一時出版活動も停止したようですが、1944(昭和19)年には出版部のみ新教出版社に統合されます。
しかし、店は営業を続け、二度にわたる空襲による罹災も、社員の努力で類焼を免れた、と記録されています。そしてやがて終戦を迎えます。
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『椊村正久と其の時代』 |

『Life』最新号を求めて教文館前に並ぶ長蛇の列 |
―戦後から現在まで―
戦後は、帰国した宣教師が残した外国書籍の蓄えなどもあり、また一時タイム・ライフの独占販売権を入手したことによって好調な滑り出しをしたようですが、教文館ビルの七階から九階をキリスト教センターにする構想に伴う軋轢や輸入事業の失敗から急速に経営危機を迎えます。
1954(昭和29)年のことでした。瀬川寿郎を継いだ藤川卓郎が社長を辞任、教文館再建のために会長として迎えられたのが、芦田内閣で大蔵大臣を経験した北村徳太郎でした。
やがて1956(昭和31)年に当時キリスト新聞社の副社長であった武藤富男が専務として招かれ、再建の実務に取り掛かります。
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武藤富男は、ウェンライト博士を信仰の師と仰ぎ、裁判官から旧満州国の官僚を経験した人物であり、山積していた係争事件や負債の清算に見事な手腕を振るい、ほぼ六年をかけて再建を軌道に乗せ、1962(昭和37)年に社長を退任します。
しかし、これで、危機が去ったわけではありませんでした。1971(昭和46)年に再び経営危機を迎えます。この間、教文館卸部の設立とそれを母体とした日本キリスト教書販売株式会社(通称、日キ販)の創設(1967〔昭和42〕年)という出来事がありました。
この度の危機に対処するために呼ばれたのが、日キ販の専務をしていた中村義治でした。
中村は1949(昭和24)年に教文館に入社、戦後最初の経営危機の時には労働組合を結成し、その後日キ販の設立に尽力し、同社専務になりましたが、その人望と能力を買われ、1972(昭和47)年に教文館社長に就任、再建のための長い道のりを歩み始めました。
和書部からキリスト教書部を独立させ、晩年にはエインカレムやナルニア国という特色のある売り場を拡張し、現在の教文館の姿を確立しました。日本の書店業界にも大きな功績を残した人でしたが、2004(平成16)年に惜しまれて逝去しました。
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武藤富男 |

中村義治 |
戦後の主な出版物としては、『旧約新約聖書語句大辞典』(1959〔昭和34〕年)、『キリスト教大事典』(1963〔昭和38〕年)、『日本キリスト教歴史大事典』(1988〔昭和63〕年)、『旧約新約聖書大事典』(1989〔昭和64〕年)や三度にわたる『新渡戸稲造全集』の刊行、
その他アウグスティヌスや宗教改革者、古代教父の著作物の刊行が挙げられると思います。
教文館の120年にわたる歴史を辿ると、日本における文書伝道の困難と、それを何とか乗り越えながら前進を続けてきた、先人たちの熱い志と祈りを感じさせられます。初期の宣教師たちの残した手紙を読むと、資金をどう調達したらよいかという話ばかりです。それは、その後もそれほど事情が変わったわけではありません。
教文館は、これまで福音が日本で確かな実を結ぶための働きの一つを担い続けてきたし、これからもその使命を担い続けて行くことでしょう。
(渡部 満=株式会社教文館社長)
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