美術史の中の教文館

【美術史の中の教文館】


藤田嗣治
「大地」制作中の藤田画伯

藤田嗣治『大地』

 現在の教文館・聖書館ビルは1933年(昭和8年)12月に竣工した。ビルの設計者であるアントニン・レイモンドは、当時日本へのコーヒー普及を積極的に企図していたブラジル政府から、ビル1階に「ブラジルコーヒー宣伝室」を設計するよう委嘱された。
 レイモンドはこの宣伝室に、日本ではおそらく初めてと思われるガラス・金属およびブラジルの珍しい木材を使用した近代的家具を備え、また和服姿のマヌカンから来訪者に無料でふるまわれる魅惑的なコーヒーの薫りの背景となる大壁画を計画していた。
 この壁画を依頼されたのが、彼の友人であり、ちょうどビル完成の1ヶ月前から二度目の帰国をしていた藤田嗣治であった。藤田は1934年9月からちょうど1ヶ月の間、教文館ビル内で毎日12時間、計360時間をかけて幅18m・高さ3.6mの大壁画を完成させ、壁画はブラジルコーヒーとともに当時の銀座の名物となった。
 しかし、ブラジルの政変や国際情勢の不安を受けて、1940年(昭和15年)春にブラジルコーヒーは閉鎖され、「大地」はこの宣伝室の責任者であったコーヒー王アッスムソン氏によってブラジルへ持ち帰られ、その後数奇な運命をたどることとなる。
 太平洋戦争終結後の1950年代に、レイモンドとパリで再会した藤田はカトリックの信徒となっており、彼の描いた多くの宗教画がカトリック教会を飾っていた。
 第2次大戦前後に日本において不遇の時期を経験した藤田が、日本を去った後、晩年にかけて深い信仰に根ざしたすぐれた作品の数々を描き上げたことと、教文館・聖書館ビルに1ヶ月篭って「大地」を描き上げたこととの間には、不思議なつながりがあるのかもしれない。

藤田嗣治『大地』

ブラジルコーヒー宣伝部1Fの壁面いっぱいに描かれた「大地」全景

 最近日本に帰って銀座聖書館内のブラジル珈琲の宣伝部へアッスムソン氏とブラジル大使館の依頼で、巾十間高さ二間の大壁画を描いた。 ブラジル、リオ・デ・ジャネイロ附近の町から田舎、丘へかけて、コーヒー農園を遠くに描いた。
 一昨年の9月5日から10月5日迄1ヶ月間で描き上げた。朝の9時から夜の9時迄毎日12時間づつ其の間すべての不義理を入れて貰ひ、招待其の他一切を謝絶して全く1ヶ月間毎日12時間づつ都合360時間かかって描き上げた。すべて国産の材料で描いて見た事も、日本の材料の発達を証明してみようという気持ちであった。モデルも使わなかった。下図もなかった。友人にもかくれ、新聞社にも秘密にして描いた。(中略)
 先きに褒美を望んで居ては何事も成就しないと思ふ。私は偶々街頭進出を卑しむ人のある事を惜しむのである。東京は日本橋から京橋新橋にかけて代表されて居る。銀座の内容を高上させる事は吾等の責任であるとも思ふ。
 されば最近出来た鐘紡の如き又昔乍らのえり治の様な舊家も、三越も松屋も松坂屋も、伊東屋も資生堂も千疋屋もと言った様に東寶も有楽座も日本劇場も、交詢社もサロン春もメトロポリタンも、皆壁畫を競って内部装飾を呈したらば豪華版銀座名物は永久の國寶ともなるであろう。単に銀座を例に取った丈けで私の主張は日本全國のものにしたい。
―― 藤田嗣治『現代壁画論』(雑誌「改造」昭和11年3月号掲載)より抜粋 ―― 

 

~1F入口ドア近辺から見た「大地」~

 「ブラジルコーヒー」1階の周囲半分を埋め尽くした「大地」は、入口(現在の和光)のドアと中心部カウンタ後部のドアの2箇所で、出入りのため当時から切られていた。ブラジルに持ち帰られた「大地」は、アッスムソンの自宅に飾るために、藤田の理解を得た上で壁のサイズに合わせて切り取られ、大変残念なことに往時の姿を見ることはすでに適わない。長らくブラジルにあった「大地」は、1971年(昭和46年)にフジタ工業(旧藤田組)が60周年を記念してアッスムソンより買い戻し、30年ぶりに日本の地に還ってきた。2001年9月には名古屋市美術館で一般公開され、現在は広島のウッドワン美術館の所蔵となっている。


 「ブラジルコーヒー宣伝部」は、日本国内へのコーヒー(ブラジル産)の宣伝普及が目的であったため、銀座のみにとどまらず、冬はスキー場で、夏は海水浴場で、ブラジルから送られてきた宣伝用の豆を挽いて入れたコーヒーを、美しいマヌカンの手から無料で各地の人々に味わってもらうという、「宣伝キャンペーン」を盛んに行っていた。社員はほぼ全員が日本人で、勤務終了時刻になると、カーテンを引いて社内はダンスパーティ会場に変貌したという。筆者(教文館勤務)は、両親ともにブラジルコーヒーの出身者である。これもまた不思議なつながりであろうか。