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内容詳細

心に満ちる感謝と喜び

戦災孤児となった寂寥さ、憧れを抱いて濫読した古代ギリシア文学やアウグスティヌスの著作への想いなど、魂に刻まれた自らの足跡をめぐる。キリスト者としての思索を言葉に託し、独自の日本語の調べを奏でる詩歌とエッセイ。 著者 吾妻國年(あづま・くにとし) 1941年、東京墨田区生まれ。東京神学大学神学部、同大学院修士課程・神学研究科(組織神学)修了。日本基督教団神戸栄光教会へ赴任(伝道師)1972年より東洋英和女学院中高部聖書科、高等部部長。現在、同学院副院長。

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書評

信仰告白と賛美の詩歌とエッセイ

小倉義明

 著者は東洋英和女学院で長く聖書を教え、のち高等部部長(校長)となられ、現在は同学院の副院長の重責を担うほか、キリスト教学校教育同盟の常任理事等を務める、伝道者の教育家である。
 本書の三分の二、約一九〇頁は書名に銘打たれているように短歌集で、五六〇首余りが収められている。まず、著者の明澄な詩心・豊かな抒情性が伝わってくる。歌集各部の表題からして「道」「憧憬(あくがれ)」「花の影」。その各部もいくつかの群詠から成り、例えば「道」の部の群詠には「白鷺」「墓標」「家族の肖像」「花の想ひで」「母の面影」等の題がつけられている。
 いずれの歌にも「いのち」に対する繊細な感受性が溢れており、心打たれるものがある。例えば「家族の肖像」。著者は十年前に御夫人に先立たれた由(「牧之庄のこと──あとがきに代えて」)、その哀切の数首──
 妻永眠(ねむる) 闘病(とうびやう)果てし安らぎに
          若き日の如 顔(かんばせ)うつくし
 わが子らの看護・介護にいそしむを
     なし得ぬ父はただ有難く
          *
 本書の三分の一、約八〇頁はエッセイ「紫薇花(さるすべり)の咲く頃」。表題は詩的であるが、内容は著者の悲痛な幼少年期の体験から始まる。両親のはからいで子どもたちは山梨の祖父母のもとに預けられた。が、東京大空襲が両親の命を奪ったのだ。エッセイの末尾は、次のような一節でしめくくられている。

 夏になると紫薇(さるすべり)の花が咲き、子供の頃の想い出が走馬灯のようにめ ぐってきます。......祖父母は三人の孫たちを育てるために貧窮し、......「紫薇花」の木も売却するほかはありませんでした。やがて共に病没の道をたどり、代々続いた家は没落したのです。けれども、幼い私たちを守り育ててくれた祖父母のことを想い起こすとき、私の心は喜びと感謝で溢れます。またその面影をどうしても想い起こせない私の父と母に「かの日には」会いたいと切に願っています。......(二八四頁)

 右のように、幼くして死別した両親に対する思慕と養育してくれた祖父母への感謝が伏流水となって湧き出した泉が、このエッセイであると言えよう。ところがこのエッセイは初めのうち幼少年期の想い出を語る随想であるが、いつの間にか死や罪責といった人間の根元的問題に迫って思索をめぐらす論考の趣を呈する。
 例えば、第一エッセイ「精霊(しょうりょう)流し・キュウリ馬とナス牛」。お盆が過ぎると、仏壇に供えたナス・キュウリに割り箸の脚をつけた牛馬を川に流して来るように、と祖父から言われる。少年の著者がこれは何? と訊ねると「お前のお父さんたちがそれに乗って、冥土に帰るんだよ」。

 私は田畑の小道を歩いて笛吹川の岸辺に行って流しました。しかし私はそこで、父母の霊魂が再び地獄へもどって行くという話に、子供心にも言い知れぬ「悲しみ」の感情を抱いたことを憶えています。(二一〇頁)

 こうして著者は、死や死後の魂の行方という問題を問い続けることになる。著者の独自性は、仏教的な死生観や儀礼を無下に退けることなく、ついに聖書信仰へと抜け出てゆく点にある。古今東西の思想家や宗教者の言に及ぶこと夥しく、著者の読書量は驚くほどだ。その探究は、アウグスティヌス『神の国』の味読へと至る。この項と、創世記の堕罪物語の項は、神学的聖書学的な知見をふまえて秀逸。続く「時満ちて」「イエスの贖罪の血」以下の項は、エッセイと言うより信仰告白と讃美の香りを放っている。
 このような柔軟な精神と真摯な探究心とを持つ伝道者・教育家がいることを同労者として誇りに思う。詩心と思索の双方を大切にしたいと願うすべての人に、本書を心をこめて推奨する。

(おぐら・よしあき=日本基督教団使徒教会牧師)

『本のひろば』(2014年12月号)より