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内容詳細

主に自らを委ねる信仰

「霊的福音書」ヨハネ。この福音書を貫くイエス・キリストの存在は、神と人間とを完全に結び合わせる「生ける神」として、現代の私たちに語りかけてくる。今日、心身の癒やしと霊性の回復が求められる中で、「霊によって新たに生まれる命」に触れ、キリストの「生きた水」を与えられることを祈りつつ語られた24編の神学的講解説教。

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書評

的確な釈義から福音の真理を紡ぎ出す

大宮 溥 著

愛と自由の福音

ヨハネ福音書講解説教

 

大島 力

 日本基督教団阿佐ヶ谷教会を長く牧会され、現在は日本聖書協会の理事長を務めておられる大宮溥牧師が、ヨハネ福音書の講解説教集を出された。教会の牧会と共に多方面で活躍をされ、またフォーサイス神学を核とした神学者でもある著者として、単独では初めての説教集である。今回本書を読み、現在の時代に生きる牧師・説教者として、どうしても語らざるを得ないという熱意から生まれた説教集であることが、全編から伝わってくるように思った。また、ヨハネ福音書の説教集としてはコンパクトではあるが、中心的メッセージを明確に語る渾身の一冊と言える。

 ヨハネ福音書は霊的な福音書であるとよく言われる。そのことは本書において繰り返し述べられているが、その霊的な福音の真理は、現代の時代が最も必要としている事柄である。「霊的枯渇状態」「霊的窒息状態」という言葉が何度か使われ、現代人に欠けているものを著者は鋭く指摘し、そこからの解放と救い、そして癒しが語られている。テキストは、ほとんどの場合、一章につき一つの箇所が取り上げられ、そのテキストの的確な釈義から説教の言葉が紡ぎだされている。これを読むならば、ヨハネ福音書の全体像が分かり、同時に現代に生きる我々に具体的な生き方の示唆と慰め、また生きる勇気を与えられる。このことを全編に亘って均等に取り上げることは不可能なので、特徴的な説教を三つ取り上げよう。

 「共感の奇跡」と題するカナの結婚式の記事(第二章)では、イエスが水をぶどう酒に変えて結婚を祝福されたのは、人間の不安と焦りへのイエスの「共感の奇跡」であり、それは「主イエスの存在そのものが、人間の存在と一体になり、生命が重なり合い、われわれと共に歩んでくださる」ことを告げている。従って、「共感」に留まらずイエスの人間との「共存」「共生」の出来事であると説かれる。

 また、「世の光」と題する生まれつき目の見えない人とイエスが出会う箇所(第九章)では、信仰には信頼と決断という二つの面があることが指摘され、信じるとは不変・絶対のことではなく、信仰とは不確かな自分を神に信頼して委ねることであり、同時に「自分の不確かさの中で動揺しないで、決断をもって自分を神に差し出す、或いは神を心の底にまで迎えることである」と語られている。つまり、シロアムの池でその人が目を洗うのはイエスに命じられたからとだけ捉えるのではなく、その人がイエスに「世の光」を見出し、その中に自分を押し出していった主体的決断を見るのである。このことは、目を癒された人のその後の生き方からして説得力のあるメッセージである。

 しかし、何と言ってもこの説教集の圧巻は、ヨハネ福音書の受難物語と「訣別説教」と言われる部分にあると言えよう。そこには、イエスの十字架の意味と、復活へと至る過程の神学的意義が極めて深く語られているのである。とりわけ「イエスの勝利」と題する説教(一六章一六―二二節、三二―三三節)は印象的である。

 訣別説教の結びの「しかし、わたしはひとりではない。父が、共にいてくださるからだ」という言葉は、イエスの絶望の修正ではなく、十字架は、神が、人間の罪を負ったイエスを「陰府に投げ入れられた」ことであり、復活は、イエスの十字架上での「わが神、わが神」に始まるあの叫びに応えて、神が「陰府の中に手を伸ばされて、落ちてくる主イエスを受け止め、陰府から引き上げ」られたことであると説くのである。これは、別の説教では、復活はそれゆえ「陰府(よみ)がえり」ではなく、むしろ「陰府砕き」であり、神の力によるイエスの死に対する勝利であると語られている。

 その他、著者自身のがん体験あるいはドストエフスキーをはじめとする文学作品と響きあう仕方で、ヨハネ福音書が告げる福音の豊かさを十分に語っている説教集である。

(おおしま・ちから=青山学院大学宗教主任・日本基督教団石神井教会担任教師)

(四六判・二三二頁・定価一九九五円〔税込〕・教文館)

『本のひろば』(2012年7月号)より