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内容詳細

伝道の危機における最重要テーマ

古代より組織神学の根本問題として扱われた贖罪論は、聖書・歴史・教会・信仰・伝道・サクラメントなど神学のあらゆる分野に関わり、いまなお熱く議論されるテーマである。
教会と信仰継承の危機にある現代のキリスト者にとって、贖罪論とは何か? 教父・宗教改革者・近現代の神学者らの言説を検証しつつ、キリスト教の中心教理の現代的な再定義を試みる論文集!

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書評

教会の形成と伝道の支えとなる神学

倉松 功

 本書は、著者の既刊『啓示と三位一体──組織神学の根本問題』(教文館、二〇〇七年)の続編で、著者の教義学第二巻、組織神学の根本問題2となっている。
 「はじめに」において、贖罪論の主題は、イエス・キリストの人格とその言葉、業、とりわけ十字架と復活の出来事における神の働きで、この神の救済行為に対する信仰と認識を深くすることが決定的に重要である、と述べている。そして贖罪論と救済論、和解論との関係や相違に言及している。
 本論では、イエス・キリストによる贖罪を中心に救いの神学が、現代の国内外の神学をふくめ、古代から現代にいたる贖罪論史が詳細に語られる。そこでは、今日の教会形成と伝道の支えとなる神学が展開される。そこで述べられる著者の神学的立場は、福音主義神学の主要な流れに沿うものである。改めて東京神学大学の神学的意味と責任を教えられ、示される。神学に携わる方々はもちろん信仰を支える神学を求める人々に広く本書を推薦したい。以下において、本書の主要項目とそれについての若干の評者のコメントを記す。
 本書は、第一部「贖罪論の再考」、第二部「贖罪論史の再検討」、第三部「贖罪論の周辺」、の三部からなる。
 第一部で注目すべきは、第一章の3「贖罪論と伝道」である。著者は、神の贖罪行為が御子の犠牲を惜しまなかった神の愛と、御子の死を通しての神の義という愛と義の深刻な理解を伴って伝道される必要を強調している。その好例として、十九世紀の「伝道の神学者」M・ケーラーをとりあげ、さらにW・パネンベルクがこの点について、M・ケーラーとバルトを比較して、ケーラーがより正しかったと評したことも紹介している。
 第二部ではアタナシオスとアンセルムス、古代と中世の贖罪論に次いで、宗教改革者ルター、カルヴァンの贖罪論をかれらのキリスト論をからめて検討している。ルターのキリスト論における人性と神性の共有は、ツヴィングリにおいては「交替」(アロイオーシス)となり、カルヴァンでは「人性と神性の区別」の強調となっていた。〈その交替や区別は、中世のカトリック以来継承され、今日に至っている。邦語では全く無差別に「属性の交流」と訳されているが実際は「神学的表現方法、仕方」でしかない。それゆえ当該人物ごとに訳し直されなければならない。このキリスト論の相違が、ルターにおいては宗教改革の早い段階(一五二一年)から神性の贖罪の死が語られ、やがて聖餐における現臨・共在説が説かれるに至ったのである。〉それに対して、カルヴァンでは「物素(しるし)と事柄の区別」が明らかにされ「天のキリストのからだの現臨」は語られないことに関係していくのである(〈 〉内は評者の附記)。そのように、ローマ書講義以来ルターが用いた属性の共有を中心に、宗教改革者たちの神学の諸問題に言及した著者の問題提起を、評者として特に注目した次第である。第二部の最後の第六章は植村正久の贖罪論を論じ、植村がキリストにおける両性の統一から神の苦痛、神の死に言及したことに現代神学との関係を指摘している。高倉の贖罪論は基本的には植村の線と見ている。
 第三部「贖罪論の周辺」第一章は「律法と福音」で、パウロとルターの相違に言及し、キリストにおける律法の成就は法的意志を持った神の永遠の意志決定の啓示と著者は解している。第二章「和解と救済」ではモルトマンの「義認論の一面性」を批判し、和解の永続性と使徒的伝道による救済の現在化を論じパネンベルクによるM・ケーラーに注目している。第三章は洗礼、第四章は聖餐論とサクラメント論となっている。聖餐論では、聖餐はそこにおけるキリストの現臨のもとでのキリストとの出会いの場であることを認識しなければならない、と主張している。それはキリストを物素の中に限定するのでも、天上のキリストへと志向するのでもない。またフォーサイスのいう教会の行為の中であるが、それはキリストの行為の強化であり、物素からの乖離ではない(第五章)と述べている。

(くらまつ・いさお=東北学院大学名誉教授)

『本のひろば』(2014年8月号)より