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内容詳細

名作に秘められたキリスト教的背景
日本で今なお不動の人気を誇る『アルプスの少女ハイジ』。原作が意図したのは、自然賛美や動物愛護を超えた、宗教的人格形成の軌跡の描写であった。作品の深層と作者の人物像に迫るべく、激動の19世紀スイス史を俯瞰し、牧師の祖父、宗教詩人の母の生涯にも光を当て、家庭環境や交友関係を史料から仔細に探究した、スイス史・宗教改革史の第一人者による画期的試み。
最新実写版映画『ハイジ』(8月公開予定)鑑賞前におススメの一冊!

 

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書評

史学者が探究した名作の深層と誕生の舞台裏

小塩節

 アルプスの少女『ハイジ』の物語を、私は幼少年時代に何度も何度も胸を躍らせて読んだ。美しく崇高なスイス・アルプスの空気とそこに生きる明るい少女の姿が、いつまでも幼少のころの私をとらえてはなさなかった。それは、児童文学の作品というより、白銀の峰々と緑の牧場のつらなるスイスの山の香りが、第二次大戦の中に愚かにもなだれこんでいく日本の暗澹たる世相の中で、心から息づくことを許す大気そのものだった。戦後に生をうけた多くの人びともきっとそうだろう。そしてそれは日本だけのことではなく、世界の多くの国の人びともそのような思い出を大事にしているだろう。

 さて、その『ハイジ』の生まれた世界を、感傷的な評伝ではなく、正確な史実に基づいて叙述する一書が出版されたので、さっそく手に取って読んだ。甘いテレビ・アニメのいい加減なお話ではあるまいが、わが幼き日の夢と感動を再びよみがえらせてくれるだろうと思ったのである。

 読み進めるうちに、この身をゆるがすほどの驚きにとらえられた。巨大な柱のようなものが、少なくとも四本ほど、私をうちのめした。その第一は、『ハイジ』の原著者ヨハンナ・シュピーリが世に出て、生き、書くに至った家系と社会を、ほぼ一世紀にわたり実に精密、正確、冷静に、まるで大きな網を一杯にひろげ、一本一本の糸を残さず数え上げ、語り尽くしていることだ。祖父母の代、両親の代、そして彼女自身とその身の周り。およそ言葉の修飾をいっさいこそぎ落して、時代と人を語っているのは、史学者の手練にほかならぬ。いわゆる文学的感動より先に、歴史の事実がさし出されてくる。

 第二の大きな柱は、十八、十九世紀に生きていたプロテスタントの敬虔主義(ピエティスムス)という、極めて純粋な信仰集団、そのあり方である。詩人ゲーテも青年時代にその静かな信仰のあり方に深く影響を受けたことはよく知られているが、このように『ハイジ』を生み出した人びとの実生活に、ピエティスムスというものが深い水脈となって流れていようとは、驚き以外の何ものでもない。ヨーロッパのキリスト教や中世以来の教会については、よく知られているだろうが、具体的に静かな信仰に生きた人びとの明るい謙虚さを知るのは、実に得難い経験である。

 そしてそれ以上に驚くのは、スイスという国の歴史の実態である。スイスは、永世中立の平和そのものの国であると、誰しもが思うだろう。しかし、十八、十九世紀のスイスの経た戦乱、戦争、混乱の数々の多さ、すさまじさには、本書を手にする人は誰しも身の震える思いをするに違いない。そしてその実相は突如現われたのではなく、宗教改革つまりカルヴァンの時代からすでにあらわだったのであり、長い苦闘と悲しみの末にスイスは現在の永久平和をかち取り守っているのだ。愚かな人間の社会が、力を尽くしてこれほどの途を歩めたのかと、誰しもが胸を打たれるだろう。賢い人びとが自然にあのアルプスの谷間に生きていたわけではない。

 本書から受ける第四の驚きは、作品『ハイジ』が、単なる明るい少女物語ではない、いや、そこには罪の問題を含めて、聖書全体が語りかけ迫ってくる人間存在の根源的な問いかけがあるということだ。少年少女向けの児童文学として翻訳され愛読され、いつまでも忘れられずに語りつがれ、読みつがれている日本版『ハイジ』は、一番大事な芯のところを抜き去り、塗り消してしまった残滓なのであった。これが日本だ。本書はそのことを淡々と、しかし誠実に語っている。

 本書から受ける驚きはまだ幾つもあるが、どうしてもここに取り上げたいのは、原著者ヨハンナ・シュピーリという人の生活と魂のありようの謙虚さである。彼女は、一、二篇の少年少女小説を書きのこしたのではない。また、作家たらんとする野心で多くの作品を書いたのでもない。そうではなくて、社会の貧困や病苦に立ち向かうディアコニッセ(プロテスタントの修道女)を助けようとして筆をとったと知らされるのである。人はかくも苦悩しつつ善でありうるのか。

(おしお・たかし=ドイツ文学者)

『本のひろば』(2017年10月号)より