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内容詳細

宣教師とは「何者」か?

日本の欧米文化の摂取やキリスト教の宣教に大きな役割を果たした宣教師が、なぜ「招かれざる客」と言われるのか。従来の研究では十分に焦点が当てられなかった日本人と宣教師の関係をさまざまな視点から掘り起こし、近代日本キリスト教受容史の問題点を探る。

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書評

すらすらと読めて心に残る学究的素材の宝庫

古屋安雄著

宣教師

招かれざる客か?

小檜山ルイ

著者古屋安雄氏は、私の先生である。かつて私がアメリカ人の女性の宣教師について博士論文を書いたとき、先生は、「私もね、『宣教師』っていう本をずっと書こうと思っていたんだ。あんたに譲るよ。」とおっしゃった。その後、私がぐずぐずしている間に、八〇歳をとうに越えられた先生が本書を出された。

古屋先生とお話をしていると、研究についてヒントをいただくことがよくある。それは、先生が実際に多くの人々と接した経験を持っていらして、経験に息づいた研究の勘を持っていらっしゃるからだと思う。

少し前に、ある研究会でお目にかかったとき、私は羽仁もと子の洋装化運動について書いていた。そのことをお話しすると、先生はさっそく良く知る羽仁もと子について、「あの人はね、男は女より優れているって思っていたよ。自由学園の高等科をつくるとき、ポロッとそう言った。そういう意味じゃ保守的だった。」とおっしゃった。羽仁とは全く違う女性として、河井道の話もされた。「あの人は、怖いよ。」と、子供の頃、河井と暮らしたときの経験を話された。テーブルについて食事のとき、貧乏揺すりをしていた古屋少年。隣に座った河井がちらと見て、彼の太ももをびしっとひっぱたき、「ジェントルマンは貧乏揺すりしない!」と言った。古屋少年はそれ以来、二度と貧乏揺すりをしなくなったそうである。羽仁にせよ、河井にせよ、公的な伝記にはなかなか出てこない、その人物の根っこにある感覚を知ったような気がして、私はイマジネーションをふくらませた。

本書は、そのような、問題へのヒントとイマジネーションとを得るエッセーとして読んでほしい。著者の長年にわたる国際的なキリスト教世界での経験を通じて見えてくる、日本のキリスト教の問題の一面が、率直に提示されている一書である。

その主張の一つは、日本における初期プロテスタント・キリスト教徒には、士族が多く、そのナショナリスティックな自立心が、宣教師を疎外したことの問題は大きいということである。ナショナリズムや自立心は良いが、それが傲慢さに結びつかなかったか、と。聖書の無謬性を信じる宣教師を士族クリスチャンが疎外したことと、日本のキリスト教が主知主義的傾向に傾斜し、ドイツ系の高等批評等を受容し、神学的リベラリズムが主流になったこととの関係も示唆している。そして、リベラルなキリスト教徒は神道を主軸とした軍国主義に妥協的であり、かつ、一般大衆への浸透力が脆弱であった。こうした日本のプロテスタント・キリスト教の主流に対して著者がポジティヴに見直すべきだとするのは、韓国や中国の保守的なキリスト教やロシア正教の在日宣教師ニコライである。著者は、日本におけるキリスト教、特に教職者が、宣教師を尊敬し、また宣教師を輩出するような、真に寛容で国際的な態度を獲得することを願っている。

しかし、本書の魅力は、こうした議論以上に、著者の知る数々のエピソードの開示であろう。たとえば、賀川豊彦の英語秘書エリザベス・タッピングとジェッシー・メアリ・トラウトが賀川の国際的名声に果たした役割についての指摘がある。日米開戦の半年前にアメリカに送られたクリスチャンの使節団に対する厳しい評価がある。東京裁判で、日米開戦の責任を取らされ、禁固二〇年の刑を言い渡されたクリスチャン、星野直樹のことが記されている。個人的には軽井沢について今調べているので、星野温泉がクリスチャンによって開業されたということに関心を持った。要するに、今後、もっと研究が進められてよい素材の宝庫なのである。

ただし、細かい年号や、単語に単純な間違いがかなりあるので(先生、ドラフトをチェックさせてくだされば良かったのに……)、引用などの際には再度事実確認の必要があることを読者のために付け加えておく。

(こひやま・るい=東京女子大学教授)

(B6判・一三〇頁・定価一五七五円〔税込〕・教文館)

『本のひろば』(2011年12月号)より