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内容詳細

キリスト教を土台とし、人間の尊厳に関わる先鋭な諸問題について取組んだ著者。過去を断罪するのではなく、その苦しみを将来に生かすため、病人、障害者、女性の完全な人間性の復権を目指して語られた渾身のメッセージ。

大震災を経て、誰もが一瞬で「弱者」になりうることを知った私たちに、これからを生きるために必要な視点がここに示されます


〈著者〉 
荒井英子(あらい・えいこ)1953年生まれ。
青山学院文学部キリスト教学科卒。東洋英和女学院大学大学院人間科学研究科修士課程修了。日本基督教団信濃町教会副牧師、富坂キリスト教センター研究主事を経て、恵泉女学園大学人間社会学部人間環境学科准教授。2010年11月にがんのため召天。著書:『ハンセン病とキリスト教』(岩波書店、1996)『近代日本のキリスト教と女性たち』(共著、新教出版社、1995)『日本の植民地支配と「熱河宣教」』(共著、いのちのことば社、2011)ほか。

〈目次より〉
Ⅰ ハンセン病に学び、がんを生きて――エッセー
ハンセン病に学び、がんを生きて/病むということ、生きるということ
Ⅱ 弱さを絆に――チャペルアワー・礼拝メッセージ
「べてるの家」の不思議なメッセージ/あなたが励ましてくれるから/偶然ではなく、最善/弱さの棘/弱さを絆に/宿屋には彼らの泊まる場所がなかった/ゆるされて在るということ
Ⅲ 信仰と人権――講演
ハイジ、クララは歩かなくてはいけないの? /ハンセン病とキリスト教
Ⅳ 女性とキリスト教――論文
ベタニア=らい病人隔離村」説をめぐって /旧約における病人・障害者・女性と罪のメタファー/預言者の女性に関する性表現の問題性 /植村環/ルツ記における「母の家」(bet’em)について/ 占領下の性とキリスト教 /「神の業がこの人に現れるため」考 /キリスト教界の「パンパン」言説とマグダラのマリア/伝道者たちの言説における戦争「被害者」の不在

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書評

弱い者、自分の病との共生をめざして

荒井英子著

荒井 献編

弱さを絆に

ハンセン病に学び、がんを生きて

 

野田正彰

 著者、荒井英子さんにお会いしたのは二〇〇三年一一月、彼女が勤める恵泉女学園大学主催のシンポジュウム「世界平和とキリスト教の功罪」に招かれたときのことだった。京都に暮す私は、その後お会いする機会もなく年月が過ぎた。

 それから三年ほどたち、〇六年晩秋、私は以前から調べたいと思っていた河北省興隆、北京から北東へ長城を隔てる山地へ、旅行する計画をたてた。満族の清王朝はこの地を御料地としていたので、今も峨峨たる山々を落葉樹が深く覆っている。かって熱河省と呼ばれた山地は、満州国を偽造した日本陸軍が長城を越えて華中へ侵略するまで、住民収奪のすべてを試したところであった。山地で暮す人びとを「人圏」と呼ぶ石垣で囲んだ狭小な収容所へ追い込み、それ以外を「無人区」と呼び人の姿を見つけしだい発砲した。生き残った村人が戦後をどう生きたか、私は聞きたいと思った。

 もうひとつの目的は、京都の北白川教会や「共助会」の人びとが誇りとする戦前の熱河伝道の現実を調べてみたかったからである。かって飯沼二郎教授がまとめた『熱河宣教の記録』や、宣教に当った沢崎堅造の『新の墓にて』を読んだとき、強い異和感をもったからである。蒙古はパレスチナにつづくアジア乾燥圏にありよく似ている、そこに東洋の十字架の道があるといった、その地に生きる人びとを無視した一方的な信仰が哀しかった。

 ふと私は、この旅をキリスト者と共にしたいと思った。そして先のシンポジュウムの主催者であった荒井献先生に、興隆への旅をお伝えした。すぐ英子夫人から、「行きます」との電話があった。こうして私たちは興隆の地で、他の満州伝道と違い関東軍と関係なく行われたと神話化されてきた熱河伝道が、中国の人びとをあまりにも無視したものであったか、驚かされた。帰国後、著者と渡辺祐子、張宏波さんの三人は研究会を持ち、一冊の論文集にまとめている。本書の「伝道者たちの言説における戦争『被害者』の不在」は、この論文集を括る文章であり、同時に著者の最後の論文となったものである。荒井英子さんは、「日本基督教に基づく唯物主義との対決を秘め、殉教をも辞さずに満蒙地域の調査・研究を行っていた」ものと批判し、今日に続く熱河伝道礼賛に対し、「半世紀経てもなお神の前に自己相対化できない信仰とは何か。戦後和解につながるキリスト教界の『悔い改め』は、いのちの尊厳に立脚した自己相対化の作業を地道に続けることからしか出発しないであろう」と問いかけている。

 この論文だけでなく、本書は荒井さんが追求し続けた三つの主題、ハンセン病者の排除隔離、女性蔑視、戦争加担とその隠蔽について、キリスト者の信仰を真ん中に置いて考察している。しかも主題と主題は、例えば「占領下の性とキリスト教」が女性蔑視と戦争責任の欠如を透視しているように、重ね合わせて追求されている。「キリスト教界は、政府の命ずる占領軍慰安所設置と国民道義の高揚のはざまで、『頽廃の象徴』とみなされたパンパンに対して、取締りと収容以上の『救済』はなし得なかった。戦時中の教会のあり方に対する反省もないままに、戦後すぐ『売春内閣』に連座して、再び国家の要請する道義高揚に応えながら活路を見出していった結果である」と指摘する。あまりにも正確な指摘に、しばし同意の言葉さえ失ってしまう。戦時、戦後を女性キリスト者の指導者として活動し続けた植村環への論考など、いずれも安易な弁明を許さない。

 英子さんは二〇一〇年一一月二四日、三年間の癌の進行に耐え、夫献さんの呼びかけに頷きながら去っていった。『弱さを絆に』の書名は、弱い者、あるいは自分の病むところを排除するのではなく、絆にすれば結ばれるとの意味である。そこに、天皇制国家のなかで受入れられ、強者や指導者であろうとした生き方の対極にある、柔らかい信頼が保たれる。本書はそんな信頼から編まれている。

(のだ・まさあき=関西学院大学教授)

(四六判・三九六頁・定価一八九〇円〔税込〕・教文館)

『本のひろば』(2012年3月号)より