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内容詳細

世界と生き物、そして人間の創造という神の業から始まる原初物語。神に祝福され生かされていたアダムとエバが、神の命令に逆らい、自らの欲望と罪の世界に歩み出した時、彼らの子孫はどのような道を歩んだのか。人間の欲望が招いた結末と神の呼びかけを、現代に生きる私たちに改めて問う説教集。『ノアとバベル物語』も同時刊行。

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書評

会衆の悩みを共有し、「みことば」と格闘する

及川信著

アダムとエバ物語

説教と黙想

 

大住雄一

 説教が説教として成り立つためには、説教者自身が納得して語っていることが必要だと、しばしば言われる。「どんなに(教理的に)正しい説教でも、説教者が納得して語っているのでなければ、説教にならない」と。しかし説教は、神の言葉として「聞かれる」ものである。たとい説教者が納得していなくても、神の言葉として聞かれているのであり、説教者自身よりも聞く者に納得されるということさえありうる。

 極端なことを言えば、説教者が納得しているかどうかは、説教の成立用件にはならない。しかし納得しないで語る説教は、説教者自身を疲れさせ、正しさの中に留まる力を失せさせる。そして、たぶん多くの場合は、聞く者にとってもつまらない。つまらない説教は、会衆のみことばへの集中を妨げる。

 正しい説教を深く納得して語るためには、説教者は苦悩し、「みことば」と格闘しなければならない。その格闘の様は、説教において明らかに発音されるわけではない。しかし教会の礼拝で、その説教を聞く信徒たち会衆は、説教者がその格闘をした上でこの説教に至っていること、そして今も格闘を続けていること、場合によっては、このときにも未だ納得していないことまでも感じ取っている。そのみことばとの格闘を、会衆も共にしている。格闘を回避し、あるいはさっさと納得してしまって、会衆を置き去りにしてはならないのだ。

 すんなりと行かない説教を語る及川牧師の説教は、すんなりと行っていないがゆえにこそ、喜び聞かれている。会衆ひとりひとりの抱える悩みが、悩みとして共有され、みことばとの戦いが、どのような戦いであるのかが浮かび上がってくるのである。難解な言葉は使われておらず、むしろきわめてわかりやすい、親切ですらある説教であるが、そのわかりやすい言葉を語る及川牧師は、決してわかりやすい人物ではない。彼が自分という人間に納得していないらしいことは、説教の端々に現れてきている。みことばにもそう簡単には納得しないぞという風をしているが、みことばには深く納得して語っている。

 納得したがらない彼は、ここで納得して語ってよいのだと納得するために、聖書学の手続きをきちんと踏んだ釈義を重んじている(まえがき参照)。ところが、たまにではあるのだが、これで決まりという段になって、はたしてここで手を打ってよいのかという良心が頭をもたげるらしい。そうすると土曜日の、こちらも切羽詰まった時間に電話をかけてくる。いい加減に答えたのでは納得しないことが初めからわかっているので、覚悟して向き合うことになる。「決まり」というところまで行ってから悩んでいるから、簡単には引き下がってくれない。そもそも、そうして「神学者」を鍛えるのが自分の使命だと思っているらしいから大変に困るのだが、実際相当鍛えられてはいるので、感謝しなければならない。説教後の黙想も二篇ある。

 実は、及川牧師の説教を礼拝の場で聞いたことは、ほとんどない。書かれた原稿を読ませてもらうばかりである。及川牧師は、見事なまでの「完全原稿」を準備し、しかも、実際の礼拝で語った通りに原稿を修正し、その日のうちにだれでも読めるようにする。だから本書でも、そうした説教を、あたかも聞くように読むことができる。

 収録された創世記二章から四章までの説教は、すべて新約のメッセージに到達して終わる。しかも、「主の正しさと人の正しさ」および「どうして怒るのか、と言われても」の二編を除いては、聖餐卓を囲む月の第一主日に語られ、主の食卓に注目して結びに至る。文学的に言えば、取ってつけたような結末となりかねないものであるが、礼拝会衆は、説教者自身を含めて、まさに聖餐卓を前にして、この契約の食卓をそなえたもう主と格闘し、この食卓に招かれているのが、自分という納得できない人間であることに狼狽しつつ、招きを聞いているのである。

(おおすみ・ゆういち=東京神学大学教授)

ツꀀ(四六判・三〇四頁・定価一八九〇円〔税込〕・教文館)

『本のひろば』(2012年6月号)より