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内容詳細

昭和初期の三陸大津波、救援に奔走した女性宣教師がいた!

津波や飢饉に苦しめられ、「日本のチベット」と呼ばれた北岩手沿岸部。恵まれた環境をあとに、そこに移住した一人のアメリカ人宣教師の物語。久慈に定住し、救援活動をはじめ、教育・医療・酪農の基盤を作り、人々の暮らしと魂を豊かにする策を実践し、「生きる喜びと楽しさ」を伝えようと歩んだ85年の生涯。

 

◆タマシン・アレン(Thomasine Allen, 1890-1976)

アメリカ北部バプテスト教会所属の婦人宣教師。インディアナ州フランクリン市に生まれ、フランクリン大学、ニューヨーク聖書学校で学ぶ。1915年に来日、東京の駿河台女学校で英語を教えた。17年仙台の尚絅女学校に転任、宮城県塩釜町や福島県平町に幼稚園を設立。38年岩手県久慈市に移り、久慈幼稚園を設立。太平洋戦争中は収容所生活を経てアメリカに帰国。47年再来日し、岩手県下の酪農事業・農村伝道・初等教育に従事。70年アレン短期大学を設立し学長に就任。76年久慈にて病没。

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書評

「神の与えし賜物(たから)分けん」「力」と「美」

目黒安子著

みちのくの道の先

タマシン・アレンの生涯

 

岩島久夫

 本書の著者目黒安子先生の前に、平成十年(一九九八年)十月から十三年(二〇〇一年)九月まで、アレン国際短大の学長を勤めさせて頂いた者として、この本をさっと一読して先ず持った印象は、よくここまでタマシン・アレン先生の御業績・足どりを集成されたということである。そしてそこに、いろいろな意味での「師弟の絆(きずな)」とでも言える「愛情の美しさ」を感じた。

 盛岡の岩手大学教養課程で国際政治学を講じた後、宮古短大、アレン短大(久慈)と前任者の後を辿る形で、ごく自然の流れの中で過させて頂いたので、特にアレン先生の御遺業を継承するといった気持は毛頭なかった。むしろ、先生の御名声を踏み台にして、自分の発展を計った思いがあったことを、内心恥ずかしく思っている次第である。

 目黒先生がアレン先生と直接どのような関係にあったかは知らないが、この本を読めば、御両者の間にまたとない「心の交流」があったことが、感じとれる。「まえがき」や「あとがき」にさっと目を通すだけでも、アレン先生の御活動をさらっと流したような編集の中に、そうした「交流」の深さがよく読みとれるような気がする。ねたましくさえ思ってしまう。

 「まえがき」で引用されている、「何故久慈にと問えば常に答えたり『神の与えし賜物(たから)分けんと』」という下公和歌「特別詠」『群緑』第十四巻第四号(平成十四年)からの言は、正にアレン先生の活動の真をついていると思う。来日を前にして、日本人を正しく理解しようと努力された先生の思いには、真底から心を動かされるものがある。先生が、日本人一つに力を注ぎこまれたお姿には、近年我々の多くが携わっている海外協力・海外支援活動に大きな示唆・教訓を与えているのではないかと思う。

 私自身、若い頃からこうした活動に従事して、数十ヵ国を尋ね、誇りともしてきたが、アレン先生が日本一つに力を注がれたように、その国々にそのような力を果して入れ込んだかどうか、何となく自信がないと言わざるを得ない。それと、アレン先生は、御自分お一人の力でその活動を推進されたが、我々の活動は、どうしてもある組織の構成員としての仕事ということになってしまう。

 先生が一九一五年(大正四年)に宣教師として来日され、一九七六年(昭和五十一年)に八十五歳九ヵ月で逝去されるまでのお働きを辿れば辿るほど、ただただ頭の下がる思いにひたらざるをえない。アレン短大が存在する久慈といえば、力強い三船十段と美しい琥珀(こはく)に思い当るが、この二つが表徴する「力」と「美」を、目黒先生の本を読むと、よく実感できる。

 著者が「あとがき」で述べているように、「キリストの愛」と「品格ある魂」を説く前にまず、大地に足を踏まえ、人々の暮らしを豊かにする策を実践に移し、「生きる喜びと働く楽しさ」を伝えようとしたのが、ミス・アレンにとっての伝道であった。どんなに未来が不確かでも、新しい一歩を踏み出す勇気を持たなければならない。その道を、アレン先生は示している。八十六年の命をかけたミス・アレンの足跡と崇高な理念とは、これからの日本人の道案内になることは確かである。

 一人でも多くの人々が、本書によってこの「道」を探ってほしい。

(いわしま・ひさお=元アレン国際短大学長)

(四六判・二九六頁・定価一八九〇円〔税込〕・教文館)

『本のひろば』(2012年9月号)よりツꀀ