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内容詳細

「無教会」という思想は、どのような聖書解釈をもとに形成されていったのか?

内村の義認論から、信仰共同体論、そして足尾銅山事件などにも取り組んだ社会改革論に至るまでを、彼の聖書解釈テキストをもとに解き明かす。『聖書之研究』をはじめとする膨大な資料を渉猟しながら、内村の思想の全貌を明らかにする画期的な研究。

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書評

「無教会」の聖書解釈的根拠

ミラ・ゾンターク

 二〇一一年、内村鑑三生誕一五〇周年を機に内村の遺産を再考する書籍が数多く出版された。それらのなかには、内村の人と思想とを誕生から死まで包括的に歴史的文脈において関わりあるさまざまな人物や出来事と対照しつつ描いたものもあれば、内村の生涯の特定の時期あるいは思想の一側面の分析を試みたものもある。本書はどちらかといえば後者に属するだろう。その構成に見られるように、本書は京都大学大学院文学研究科思想文化学専攻提出の博士学位論文であり、他の書籍と比べ、全体の六分の一を占める出典表記や追加説明の豊富な注、細かい項目立てが注目される。

 そのような構成のなかで本書は、内村の思想を解き明かしたこれまでの研究者による仮説に対して、内村自身の著作を大いに活用しつつ、問題提起に沿った分析を加えたものという印象を与える。では著者自身は具体的にどのようなことを解明しようとしたのだろうか。「第一章 はじめに」の一行目で明示される課題は「内村鑑三のキリスト教思想の内実を明らかにすること」である。「内実」という言葉から、本書は「だれも見たことがない内村」を解明するもののように見える。続く章で著者は、幾つかの対立的概念を提示しつつ、内村がそれぞれの場合においてその片方のみに縛られていたかのようなイメージが日本人の意識に浸透していると指摘しており、本書がもう一方の内村の紹介を意図したものであることが分かる。もう一方の内村とは、個人だけでなく「社会を思う内村」、義だけでなく「愛を大事にする内村」である。そのような内村を読者に伝えるために、内村における三つの問題、すなわち「個人の問題」、「信仰共同体の問題」、「社会の問題」が「義認論」、「教会論」、「社会改革論」と関連づけられ、各々に関する内村の聖書釈義が確認される。これらを見ると、本書の題目にある「無教会」とは、内村を創始者として現在まで「無教会運動」あるいは「無教会主義」を継承してきた人々の「無教会」ではないことが明らかであり、また内村だけの無教会主義に集中しているとしても、それを教義学的課題、予定説と万人救済説と結びつけて論じるという著者独自の視点がみられる。

 また、「社会の問題」では、足尾銅山事件等において社会参加しようとした内村の社会改革論について「社会主義」との相違点を示しながら、「宗教的法・ルール」(キリスト教の律法)に基盤を置く道徳的課題として分析される。他方この章では内村のナショナリズムにも触れられる。抽象的な「個人と信仰共同体と社会との関係」論は、必然的に個人と信仰共同体を取り巻く特定の地理的・文化的・歴史的文脈の中で具体化されるゆえに、内村の思想もそうした限界を負う。そこで著者は「国家論」と題する段落において、「日本的キリスト教」として内村の思想の性格を検討する。

 本書の最後には、「第五章 まとめと展望」が置かれ、「内村鑑三とは何者であったのか」との問いに対して次のように答えられる。

 「内村鑑三は、聖書のメッセージを説き明かした文章を、それ自体としても極めて魅力的な日本語による文章で、多く残した人物である。その著作により、時代を超えて聖書のメッセージを伝えようとする伝道者である(中略)重要なことは、内村の言葉を受け入れるか、受け入れないか、ではなく、聖書を、そして聖書を通してキリストを知ることであるだろう。」

 著者はここで岩谷元輝の内村批判に応答する形で内村の自己主張、すなわち「余は〔他ならぬ、ただの〕クリスチャンである」を再確認している。しかし、著者の狙いが何であったにせよ、この結論を以って本書は、奇妙なことに第一章において批判的に取り上げられた内村のキリスト教思想の「内実」に関する従来の研究者の仮説に再び回帰してしまったのではないかと思われる。

(Mira Sonntag=立教大学キリスト教学科准教授)

『本のひろば』(2013年8月号)より