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内容詳細

   ヒトラー政権に抵抗した人々の信仰!

 ナチズムの暴政と徹底的に闘ったドイツ告白教会。厳しい弾圧にも屈しなかったその抵抗運動はどのような信仰によって支えられたのだろうか? ヒトラーとの闘いを通じて改めて聖書を説き、キリストを紹介する意味を再発見した牧師たちの説教を収録。「説教のための黙想」を生み出したその「説教論」も紹介する。

   [登場する説教者]

 ニーメラー/ ゴルヴィツァー/ シュニーヴィント/ イーヴァント/ ディーム/ フォーゲル/ フォン・ボーテルシュヴィング/ ヘッセ/ インマー/ ベックマン/ フォン・ラート/ ハーメル/ エーベリング

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書評

繰り返し響く前進への呼び声

天野 有

 貴重な信仰告白の闘いの記録である。「ドイツ告白教会の説教者たちが戦った戦いは今も続いている」。「この現代日本のまっただなかで説教を語り、聴く者たちならば、それがよくわかる」。「この説教集を通じてわれわれ自身の課題を改めて深く知り、決意を新しくしたい。それが私の......祈りです」。編訳者の加藤常昭氏の「あとがき」の言葉である。通読し終えた今、その「祈り」を共有したいと願う。
 美しい表紙は(今年八〇周年を迎える)バルメン宣言採択直後の報告冊子(と思われる)の写真で飾られている。「ドイツ福音主義教会の告白会議。バルメン一九三四──諸講演と諸決議」という表題の後、《教会を保持しうるのはわれわれでもその父祖でもその子孫でもない。それを昨日も今日も明日もなし給うのは「わたしは世の終わりまですべての日々あなたがたと共にいる」と語り給う方、イエス・キリストである》という趣旨の文章が、末尾にマルティン・ルターの名を付して引用されている(マタイ二八20は宣言第六項の引用聖句)。冒頭「序説」(編訳者)では、特に「2 バルメン宣言の説教学的考察」、「3 説教史におけるドイツ告白教会」(告白教会は「一種の説教運動」であった!)が重要であろう。主要部の、訳者によって選ばれた一三名の説教者による三五篇の説教(僅かに戦後のものも含む)は、「ドイツ国内の教会の牧師として説教し続け」「教会員と共に戦っていたところで語られた説教」(三六頁)である。その都度説教者についての編訳者による簡潔適切な紹介がなされ、また、トーマス・マンの「序文」やH・ゴルヴィツァーの「序言」(弁証法神学が「説教の危機」から生まれた「神学運動」だったこと、ベルリン・ダーレム教会における若手の同僚牧師として、一九三七年七月ニーメラー牧師が逮捕された直後から「とりなしの礼拝」を始め、「戦争が終わるまでの八年間、教会員は毎晩」[!]、その礼拝を守るために集まったこと等)やH・ディームの説教論が織り込まれている。
 さて、私自身は他のどの説教者よりもM・ニーメラー牧師の説教から圧倒的印象を受けた(当時の状況・雰囲気がよく伝わってくる、という意味でも。但し一一九─一二〇頁!)。ここでは、説教がそのまま闘いの言葉・闘いの行為となっている。例えば、説教者が指し示すイエス・キリストの十字架から発する光が直ちにガマリエル的中立性(=中間派[三三頁]をも暗示しよう)の実相を照らし出しこれを退ける(九一―九七頁)! この主ご自身の闘いの中に言わば投げ込まれることによってニーメラー牧師に「主イエスの声」──或る御言葉──が「初めて」「はっきり」聴こえてくるということが起こった(七九─八〇頁)。そのゆえに彼は改めて会衆(ゲマインデ)に呼びかける。福音は福音で、教会は教会で、信仰告白は信仰告白であり続けなければならない(八二頁)、と!──ニーメラー逮捕の数カ月後の待降節、D・ボンヘッファーは『キリストに従う』(Nachfolge)を獄中の彼に贈った。「兄弟たる感謝として! 著者よりも彼その人の方がより良く書き得るであろう本を」との献辞と共に。一九四一年、本書一三名の説教者の一人H・J・イーヴァントも、その後ザクセンハウゼン強制収容所に収容されていた彼に感謝の献辞を添えて『ルターの教えによる信仰の義』(邦訳は『ルターの信仰論』)を贈った。イーヴァントは、「福音主義教会の現実に失望し」カトリックに移ろうとしたニーメラー(四九頁)ただ一人のためにこの本を書いたという(ニーメラー夫人からゴルヴィツァーへの伝──クラッパート教授による)。そして、一九五二年、K・バルトの寄稿文「バルメン」(ニーメラー六〇歳祝賀論集)。バルトにとって、「同志」ニーメラー(「われわれの中で、かつて〔一九三四年一月〕......ヒトラーに面と向かって抵抗した唯一の人!」(四三頁も参照)──その「代償」がヒトラーの「個人的囚人」としての八年間の強制収容所生活だった[H・E・テート])は「《バルメン》の体現者」であり、「教会闘争」とは「範例的にはダーレム教会におけるニーメラー牧師のことを意味したし意味している」のであり、ニーメラー牧師を憶えるということは《バルメン》が「前進への呼び声」として「耳に」響くことなのだと。
 七七年前の「ダーレム教会におけるニーメラー牧師」の説教──信仰告白!──は(だけではないがしかし「範例的に」)、つい先頃(昨年末)起こった「特定秘密保護法」の衆参両議院での強行採決と安倍首相の靖国神社参拝によって一九三三年のナチズム・ドイツの政治状況──「「秘密国家」・「軍事国家」への道」(「特定秘密保護法に反対する学者の会」の二〇一三年一二月七日の抗議声明)──へと今や踏み出しつつある(!?)「現代日本のまっただなかで説教を語り聴く」われわれ──教会と神学!──にとっても、直ちに、「前進せよ!」との「呼び声」として繰り返し響いてくることだろう。本説教集を通して与えられる励ましと慰めとのゆえに、われわれは編訳者に深く感謝しなければならない。

(あまの・ゆう=西南学院大学神学部教授)

『本のひろば』(2014年4月号)より