税込価格:1980円
購入サイトへ 問い合わせる
※在庫状況についてのご注意。

内容詳細

「人生には逆転がある」
青山学院院長の著者が、大学や教会で語った奨励・説教19篇を収録。
進学、就職、結婚など将来への課題を抱える若者たちに、聖書の言葉を紹介し、「どのように生きるべきか」を希望をもって問いかける。

捨てられた石とされて諦めて寝ころんでしまっては、その後の人生は開けてきません。……捨てられた石とされた時には、希望をもって、祈りをもって自分を磨いていかなければならないのです。(本文より)

 

【目 次】 平和をつくる人──序に代えて
1 明日の社会をつくる──青山学院院長に就任して
ヴィジョンを掲げて/明日の社会をつくる /本多庸一の信仰/リーダーの条件/山の上の町
2 新しい歌を──キリスト教学校と教会
神の約束/教会・学校・社会/新しい歌を主に向かって歌え
3 その神の名は?──大学チャペルにて 石を枕に/パワースポット/日本は厄年?/その神の名は?/自然の神/エレミヤの祈り/ 悟りと救い/預言と占い/人間は何者なのでしょう/家造りらの捨てた石 あとがき

 

【著者略歴】
1947年生まれ。国際基督教大学卒業、東京大学大学院修士課程修了、同博士課程単位取得満期退学。経済学博士。放送大学、青山学院女子短期大学、聖学院大学を経て、青山学院大学教授。2014 年より青山学院院長。

在庫表示は概要となります。詳しくは「問い合わせる」ボタンから直接出版部にお問い合わせください。

書評

福音の新しい歌を歌うために

近藤勝彦

 本書の著者梅津順一先生は、現在の日本では希少価値に属するキリスト者の社会科学者であり、マックス・ヴェーバーとピューリタニズム、並びに近代日本の思想史研究者としてよく知られている。その先生が青山学院院長の使命を担って、青山学院とキリスト教学校、またそこで学ぶ若者たちのために語られたメッセージが本書である。

 全体は3章に分かれ、第一章「明日の社会をつくる」は「青山学院院長就任の辞」をはじめ、学院創立記念礼拝など、院長として語られた文章5篇が収められている。第二章「新しい歌を──キリスト教学校と教会」は、著者の出身教会である日本基督教団山形六日町教会での講演など、教会における伝道講演3篇が収められている。第三章「その神の名は?──大学チャペルにて」は院長就任以前の大学でのチャペル説教10篇で、聖学院大学時代のものや青山学院女子短期大学での講演も含まれている。序に代えて掲載された青山学院クリスマス点火祭の説教を加えて、計19篇が本書を成している。

 第一章では、著者は社会科学者・近代社会思想史家の眼力をもって、青山学院のみならず、日本のキリスト教学校が置かれている現状を歴史的に認識し、現下の課題を捉えようとしている。特筆してよいのは、著者が伝道する者の心をもって、「神への献身」を重んじ、それを受け継ぐと語っていることである。青山学院はまことに適任の院長を得たと言うべきであろう。著者はまたその研究によって、福沢諭吉の教育による日本の近代化の試みをよく知っている。そのうえで、現在の科学の倫理的危機を視野に入れ、むしろ人間の知的能力の限界を知り、主なる神に尋ね求めなければならないと語る。そこで、宗教より学問が大事とした諭吉に対し、「人間の魂の奥底から新しくなることを重視」した本多庸一がまさると語っている。

 第二章では、キリスト教学校に働く著者が教会を場として伝道の言葉を語り、現代社会の危機的諸問題を視野に置きながら、教会とキリスト教学校の連携を求め、「キリスト教学校は教会の信仰の力によって支えられなければならない」と語る。さらにこの章の標題でもある講演「新しい歌を主に向かって歌え」の中では「共に日本の教会の将来を考えて行きたい」との願いを表明し、日本の教会に対して提言が語られる。教会が「一教会平和主義の落とし穴」に落ちて、教会員だけの閉じた場所になっていないかと著者は問う。「信仰の言い表し方がどうしても内向きになってはいないか」と。それから一人でなく、教会という「合唱団」として、福音の新しい歌を歌う、その準備と効力について語っている。著者がなお希望を失っていないところが大変よい。著者は何しろ、堅固なクリスチャンであった母上の願いで幼児洗礼を授けられ、教会学校に通わされ、高校二年生で信仰告白し、今はその夫人が牧師として奉仕しておられる、言うならば筋金入り(どんな筋金もそれ自体では脆いとしても)の教会人である。日本の伝道不振について、いまからでも遅くはないと言うにはよほどの神からの示しがなければならないが、しかしぜひ著者の研究者としての眼力を生かしてこの伝道不振の「現状分析」「原因の解明」「原因への対処」の究明のために今後も尽力願いたい。

 第三章には本書の表題になったチャペル説教が含まれている。日本の宗教性は「神仏の加護」を感じても、「その神の名」を問うことをしない。神の名と真実を問い詰めない。結局のところ「お札」や「占い」に身をゆだねる。それは結局、何が起きても「何とかなるとの根拠なき楽観」に通じるのではないかと著者は言う。「神の名を求めることを避ける態度が、......(現にある)問題を避けた」と。第三章の説教群は、意図して「キリスト教への通路」を指し示すのにとどまっている。しかし「通路」のよき指し示しには、すでに指し示される内容が雄弁に語り出されている。それは十分な仕事と言い得るであろう。

 学生の皆さんをはじめ、キリスト教学校の関係者たち、そして教会の牧師・伝道者、信徒の方々にも本書の購読をお薦めする。

(こんどう・かつひこ=東京神学大学名誉教授)

『本のひろば』(2016年6月号)より