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内容詳細

異端反駁Ⅱ

グノーシス諸派への徹底的批判

グノーシス主義の反駁を目的として書かれた、リヨンのエイレナイオスの主著(全5巻)の第2巻。前巻で報告された、ヴァレンティノス派をはじめとするグノーシス諸派の教説に対して、論点ごとにその思弁の矛盾を論破し、精緻な内在的批判を加えていく。本邦初訳!

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書評

グノーシス主義の誤りを糺す真摯な批判

土井健司

 二世紀頃のキリスト教文献を読んでいると、ときに羨ましくなることがある。リヨンの監督エイレナイオスは、子どもの頃、座して話す老ポリュカルポスの謦咳に接したという。さらに、使徒教父のポリュカルポスを通してヨハネや彼の語るイエスの話を聴いたとも記す。エイレナイオスにとってポリュカルポス、またヨハネやイエスでさえも、記憶のなかの人であり、その言葉も生きた思い出であった。われわれが、もはや文書を通してしか知りえない遠い昔を、彼は、ポリュカルポスの声として自分の記憶のなかに保持していたわけである。

 右記を伝えるのはエウセビオス『教会史』(第五巻20章)である。エウセビオスはそのほか復活祭論争など、エイレナイオスに関する興味深いエピソードをわれわれに伝えている。そしてエイレナイオス自身の著作としては『異端反駁』五巻が伝わっている。この著作は、正しくは『不当にもグノーシスと呼ばれているものの罪状立証と反駁』(H・クラフト『キリスト教教父事典』)であるが、二世紀から三世紀にかけて教会を脅かした異端派の反駁をもくろんだものである。すでに第三巻、第四巻が小林稔訳で日本語になっている。また第一巻は大貫隆訳ですでに出版されている。今回つづけて公刊されたのは、大貫隆訳の第二巻となる。大著にとりくむ訳者の労をねぎらいたい。

 「グノーシス」という言葉は、ギリシア語で単純に「知」や「認識」を意味している。となるとエイレナイオスがここで主に反駁するのは、教会のなかで真の知、認識を所有するといって誇る人びとということになろう。そのためエイレナイオスは、この第二巻でこの人びとの「認識」が辻褄の合わないデタラメであると論駁しようとする。たとえば第三部では数の思弁が批判される。数の思弁は、ピュタゴラス派などギリシア哲学にも見られるものであるが、たとえば十二という数について、プトレマイオス派では、十二番目のアイオーン(ソフィア)において起こった「情苦」というものは、十二番目の使徒によって十二番目の月に起きたと主張する。ユダが十二番目の使徒であり、イエスの活動は丁度一年、すなわち十二か月であったというのであるが、それぞれその根拠となるものが示されておらず、荒唐無稽であるという。また福音書にみられる「長血をわずらう女性」の話も十二年間患って癒されたと十二にこだわる。そもそも「数字や単語や文字記号を使って神を探求すること」は恣意的で不確実である。それらは「多種多様で変転きわまりない」、つまりどのようにでも議論をでっちあげることができる。したがって「数字から教えが導かれるのではなく、逆に教えから数字が導かれるのである」という(訳書一一六〜一一七頁)。

 人はよほど知を求め、認識を誇るものらしい。自分こそが真実を知っているという類の自称、自慢は、われわれも日々経験するところであろう。問題は、その知の根拠、認識の根拠になるが、これを冷静果敢に問い、批判したのがエイレナイオスだということになる。キリスト教の伝統が、このような知的探求に根差すものであることには多くの文献が示すところである。ここに訳された『異端反駁』も真摯な努力を確認できる古典のひとつである。

 数の関連でちょっと興味を引いたのが、イエスの年齢について。プトレマイオス派によればイエスは三十歳で伝道をはじめ、その活動の十二か月後にユダの裏切りによって天に帰ったという。三十歳で伝道をはじめたということについては、ルカ福音書に記されており、エイレナイオスも否定しない。しかしその活動はもっと長く十年以上続いたという。それは使徒ヨハネからアジア州の長老たちが聞いたことだと述べている(一〇五頁)。たしかにイエスの活動は二、三年であったというのは今日常識であろう。しかしこの常識は福音書の記事を過度に時系列に捉えすぎているのかもしれない。この記事は、この辺りについて再考を促す証言となるかもしれない。いかがであろうか。

(どい・けんじ=関西学院大学神学部教授)

『本のひろば』(2017年10月号)より