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内容詳細

教会は何によって建てられるのか?

四国・北陸・東京で40年以上にわたり堅実な伝道・牧会をしてきた著者が贈る渾身の「日本伝道論」。伝道途上国・日本における新しい宣教学の構築を目指した革新的な論考。シリーズ既刊(2015年)につづき、二巻にわたって教会論についてさらに具体的、実践的に詳述する。
本巻では、教会の役割を問いかけ、聖礼典と説教のさらなる充実を目指す。

【目次】

はじめに

序章 現今の日本においてどのような教会論を構築すべきか

第1章 キリストの現臨について

第1節 教会の活性化をけん引するもの──キリストの現臨について
1 イエス・キリストの現臨を担うもの
2 説教と聖礼典の、前者の優位性における両者の相互補完性
3 教会の二つの課題──宣教と証し
第2節 教会の活性化をけん引するもの──キリストの現臨を証しする聖霊
1 なぜ現代社会の中で聖霊論的思考が求められているのか
2 「この世」と「キリストの現臨」との関係
3 教会に集う人々と「キリストの現臨」との関係

第2章 説教壇の向上を目指して

第1節 説教の課題
1 説教とは何であり、だれによって命じられているのか
2 説教の課題とは何か
第2節 説教の可能性
1 説教は聖霊によって神の言葉となる
2 説教は福音(義認と聖化と召命)を語ることができる
3 説教は聖書の霊的な講解という形で、初めて説得力を得る
第3節 説教の作成
1 説教職への召命
2 説教者と聴衆
3 テキストからメッセージへ
4 説教の構造原理について
5 「鳥瞰図」再論

【著者紹介】

上田光正(うえだ・みつまさ)
1942年、東京生まれ。1966年、東京神学大学大学院修士課程修了。1968年、東京大学大学院修士課程修了(哲学)。1968─1973年、ドイツ留学。神学博士号取得(組織神学)。帰国後、日本基督教団安芸教会、若草教会、美竹教会を経て、現在曳舟教会牧師。
著書 『カール・バルトの人間論』(日本基督教団出版局、1975年)、『聖書論』(日本基督教団出版局、1992年)ほか。

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書評

伝道に労苦する人に向けて

加藤常昭

 力作である。著者は、既に七〇歳を超えているが現職の牧師である。東京神学大学、東京大学、更にドイツで学び、カール・バルト研究で学位を得ている。篤学の士である。四国の安芸、北陸の金沢、東京の山手で牧師を務め、今は下町で伝道しており、日本伝道の経験も多彩である。伝道しつつ、学びつつ、施策の成果をまとめた。それだけでも評価し得る。

 久しぶりの著作というわけではない。むしろ反対である。二年前『日本の伝道を考える』という題で三巻の刊行を果たしたばかりである。それで終わりであったはずであるが、改めて決心して書き始めた。そしてA5判、本文二五〇ページ、注七〇ページという大冊となった。しかも、なお一冊が刊行される、と言う。伝道に携わりつつの著述は偉いものであるが、しかし、それに応じて次々と出版している出版社の貢献も大きい。

 本書は緊急出版の趣がある。日本基督教団に象徴されるように日本プロテスタント教会は存亡の危機にあると著者は見ている。その関心が書名にも反映されている。「日本の教会の活性化」を願って書いたと言う。今の教会が命を失いかけているから新しい命を吹き込もう、と言うのである。その急所は説教と聖礼典にあると考える。更に絞れば説教である。そこで、この書物は何よりも説教を語る。初心の伝道者の手引きとなることを願っていると明言している。説教学とも言える本である。

 最初に著者の願う日本の地に根ざす教会像が語られる。日本プロテスタントの歴史の最初からあった公会主義と言われるものである。プロテスタント改革の当初から抗争を続けてきた欧米諸教派の存立には否定的である。著者の立つところは聖書であり古代教会であると明言する。合同教会である日本基督教団の神学的立場を整えるために貢献してきた著者らしい。

 本論は二章に分かれる。第一章は教会の活性化を牽引するものを問う。教会のいのちとは何か、である。言うまでもなくキリストが臨在されることである。伝道とは生き生きとした生命感ある礼拝共同体としての教会が形成されることである。それは今生きておられるキリストが、そこにおられ、それを支えてくださることによる。その臨在を体験するのが礼拝であり、その中核をなす説教と聖礼典に注目する。しかし、著者は、これを更に聖霊論として展開する。バルトに学んだ著者らしく、バルトが願ったように必然的に聖霊論になると考える。ボーレンにも言及するし、スピリテュアリティも論じられる。

 第二章「説教壇の向上を目指して」は、説教の課題を改めて論じることから始め、説教作成過程をかなり具体的に、著者の説教者としての体験を語り、具体例を挙げ、あるいは渡辺善太、ガダマーなどの解釈論を援用する。講解説教を念頭に置いているが、テキストの語るところをきちんと読み取れば、それを一五字、つまり俳句より少ない字数で言えるはずだという持論も登場する。特に力を入れるのは黙想である。これを「霊的黙想」と呼ぶ。その他、この小論では紹介しきれないほど多くの問題が取り上げられ、考察が続いて終わるのである。

 私は伝道に労苦する人たちに本書を勧める。よく対話するとよい。しかし、そこで、どのような評価を受けるであろうか。極めて実践的な課題を自らに課した書物である。著者自らが認めるように実践神学の書物である。そうだとすればシュライアマハーの実践神学理解、黙想論など、現代実践神学と対話して欲しかった。それはともかく、伝道活性化を促し得ているか。それが問われる。著者が願うアッピールをするためには、こんなに浩瀚な知識を広げ、議論して見せ、時に晦渋の印象を与えるのでなく、明晰簡潔に論じる言葉を聴かせるべきではなかったかという思いがある。敢えて言う。語り過ぎてはいないであろうか。

(かとう・つねあき=神学者)

『本のひろば』(2017年11月号)より