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内容詳細

池澤夏樹 氏 推薦!

他者を愛することができるのか。
戦火を逃れて到来した難民たちをどう扱うかをめぐり、救済と排除の論理がぶつかり、
献身と我欲・権力欲が衝突する。
これはそのままたった今の物語である。

 

──カザンザキス没後60周年記念出版!──
キリストの受難をモチーフに、架空のギリシア人村における波瀾に満ちた日常を描いた、ノーベル文学賞候補にも挙げられた文豪が紡ぎ出す人間群像劇。1948年の発表後、多言語で繰り返し翻訳書が刊行され、映画化(『宿命』1957年)、オペラ化(『ギリシア受難劇』1961年)、連続TVドラマ化(1975〜76年)もされた、半世紀を経ても世界中で愛される現代ギリシア文学の名作。

 

◎作品紹介
アナトリア半島にあるギリシア人の小さな村リコブリシに、ある日トルコ軍の迫害を受けた難民たちが流れ込む。以来、難民たちと村人たちの間には軋轢が生じ、次々と事件が勃発する……。
20世紀初頭のオスマン帝国治下のギリシア人村で復活大祭から降誕祭までに起こる一連の事件を描いた物語。政治的・社会的・宗教的主題を内包する重厚な人間ドラマが、牧歌的な美しい自然描写と共に語られ、全篇に横溢する著者のユーモアを味わえる、現代ギリシア文学の代表的小説。

◎推薦のことば 池澤夏樹

カザンザキスは巧妙な小説を考えた。

場所は二十世紀初頭のアナトリアの村。イエス・キリストの裁判から十字架の上の死までを芝居として素人たちが演じる。その受難劇の内容に現実が少しずつ重なってゆく。イエス、使徒ペトロ、ヨハネ、ヤコブに扮する若者たちの性格がそれぞれの役の色に染まる一方で、村の長老たちはイエスを死に至らしめた古代ユダヤ人たちの悪を体現するようになる。

更に、戦火を逃れて到来した難民たちをどう扱うか、という問題が村人たちに突きつけられる。救済と排除の論理がぶつかり、献身と我欲・権力欲が衝突する。つまりこれはそのままたった今の物語である。

やはりイエスは死ぬしかなかったのか? だとしたらその死の意味は誰がどう担うのか? たくさんの登場人物の数か月に亘る発言と行動で織られたプロットを通じて、他者を愛することができるかという、人間にとって最も重い倫理の課題が問われる。

◎著者紹介
ニコス・カザンザキス(Νίκος Καζαντζάκης
ギリシアの小説家、詩人、劇作家、翻訳家、政治家。
1883年クレタ島のイラクリオンに生まれる。アテネ大学で法学を、パリ・ソルボンヌ大学で哲学を学ぶ。キリスト教、仏教、共産主義などの思想を遍歴、生涯を通じて人間精神の真の自由を追求した。1948年以降フランス在住。1957年ドイツ・フライブルクで客死。3度にわたりノーベル文学賞候補に挙げられた、20世紀ギリシアを代表する文学者。
著書に、叙事詩『オデュッセイア』のほか、小説では共に映画化された『その男ゾルバ』(秋山健訳)と『キリスト最後のこころみ』(児玉操訳、以上恒文社)をはじめ、『石の庭』(清水茂訳)、『兄弟殺し』(井上登訳、以上読売新聞社)、『アシジの貧者』(清水茂訳、みすず書房)などがある。

◎訳者紹介
藤下幸子(ふじした・さちこ)
京都市立芸術大学日本画科卒業。ギリシア国立テサロニキ大学「留学生のためのギリシア語コース」修了。ギリシア国立アテネ美術大学モザイク科修了。
現在、大阪市で現代ギリシア語教室「エリニカ」主宰。

田島容子(たじま・ようこ)
大阪大学文学部西洋史学科卒業(古代ギリシア史専攻)。同聴講生(古典ギリシア語)。百合学院高等学校非常勤講師(社会科歴史担当)。
現代ギリシア語教室「エリニカ」講座受講。

 

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書評

現代に訴えるギリシア文学の金字塔

柳田富美子

 『キリストは再び十字架にかけられる』は、カザンザキスの代表的作品の一つである。

 まず、日本ではあまり知られていないカザンザキスであるが、彼は作家であるとともに、常に人間の存在や社会における人の生き方という普遍的テーマに取組み続ける、行動する思想家でもあった。単に思考の世界に留まることなく、生きることの意味への答えを求めて、実際に宗教や哲学、社会主義、実業、政治などの世界に自ら飛び込んでも行った。カザンザキスによれば、人は常に本質を求めて探究し続け、世俗を超越しなければならない。無為に時を費やすことなく、「日常」と「普通」を越えなければならない。無為に過ごすことは人を堕落させ、尊厳を失わせる。彼はまた、森羅万象を慈しみ、愛しいまなざしを向けている。文化、風景、野の花々や小動物にいたるまで自然界の一つひとつのものが全体の中でなんらかの役割を果たし、生を営んでいると考えていた。

 さて、作品『キリストは再び十字架にかけられる』の舞台は二〇世紀初頭のオスマン帝国治下、アナトリア半島にあるギリシア人村という設定で、復活大祭から降誕祭までの間に起きる一連の事件が描かれている。オスマン帝国の支配下にあるとはいえ、自然に恵まれ、そこそこ豊かで平穏な日々を送っていた村人たちの生活、そして、金と欲に支配されつつ、先祖から受け継いだとおりに生きて子孫へとつないでいく村の指導者たちの澱んだ生活が、ある日突然、村になだれ込んできた多数の難民集団によって大きな試練にさらされ、脅かされることになる。村人たちを率いる神父や村長はどのような心理でどのような行動をとるのか、当初、温厚なこの村の人々は同胞の難民たちを不憫に思い、手を差しのべるが、時の経過とともに自らの土地や財産あるいは健康が不利益を被る可能性が出てくると、どのように態度を変容させていくのか。それは自分たちの既得権を守ろうとする本能かもしれない。キリストの受難劇を演じることになった若者たちは自らの役をどう受け止め、どう昇華させていくのか。誰しも人は試される。カザンザキスの目はあくまで厳しく、日常に潜む醜態が白日の下にさらされていく。

 カザンザキスは、登場人物たちの一人ひとりに、愛欲、金欲、名声権威欲、利己心など現実世界における人間の心に潜むあらゆる醜い欲望を体現させ、本来は人々の心の拠り所であり指導者であるはずの神父の偽善と堕落をもあからさまに表現しつつ、その対極には貧しく学もない一人の若者を通して神に従う純粋な魂の昇華を謳いあげている。神が人間に求める道は非常に厳しいが、それに従い歩むことこそが真の魂の救済であるという強いメッセージがそこには込められている。シンプルではあるが、ある意味、聖書のように分かり易く、時代を超えて彼の作品が人の心に響く所以である。

 また、この作品はいくつもの現実世界の問題をはらんでいるが、奇しくも難民問題は、まさに今、ギリシアとギリシア人が直面している問題でもあると同時に世界が直面しつつある問題でもある。この2〜3年で百数十万人に上る難民が命がけでエーゲ海をゴムボートで渡り、ギリシアにたどり着いた。その状況は今も続く。戦火を逃れ、あるいは貧しさから逃れようと命がけで押し寄せてくる外国人難民たちにギリシアの人々は寛大である。しかし、難民たちが目指す欧州諸国が門戸を閉ざした結果、行き場がないままギリシアに滞留し続けることになった難民には絶望感、ギリシア人社会には増え続ける難民が社会を脅かしつつあるという恐怖と反感が次第に広がりつつある。欧州のみならず世界各地で移民・難民の受け入れが問題になりつつある今、まさにそれぞれの社会で異質のものに対する受容性が試されている。

 本訳書は原語のギリシア語から日本語に訳されたものであるが、訳者の藤下、田島両氏はこの大作の登場人物たちの語る言葉を関西弁で表現している。これは「自分たち自身の日常語である関西弁でなければ、真に登場人物たちの心の声を自然体で表現することができなかったから」だという。この作品の世界に入り込み、登場人物たちと一体化し、その結果、魂を込めた本訳書が出来上がったのである。現代ギリシャ語から日本語への高度な直接翻訳により、現代ギリシャの精神文化を紹介するという貴重な仕事を成し遂げた藤下、田島両氏にエールを送りたい。

(やなぎだ・ふみこ=駐日ギリシャ大使館公式翻訳者)

『本のひろば』(2018年3月号)より