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内容詳細

真に「幸福な」死と生への招き―

キリスト教はなぜ、人間の命を特別なものと見なすのか。人間に固有な死の意味とは何か。多神教や唯物論的な見方では決して見出しえない、驚きに満ちた新しい幸福論。

[目次]

第Ⅰ章 神とはどのようなお方か

第Ⅱ章 人間とはどのような存在者か

第Ⅲ章 キリスト教の死生観

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書評

<本のひろば2021年8月号>

死を越えた真の幸福への道案内
〈評者〉芳賀力

 本書のタイトルは『キリスト教の死生観』であるが、キリスト者だけでなく、広く一般的な読者に訴えかけ、聖書的な死生観の持つ意義を高調しようとするものである。手がかりは「幸福論」である。幸福論はギリシア哲学に由来する主題だが、現代人の関心をも呼び起こす普遍的な主題なので、格好の入り口と言えるだろう。世俗的な幸福論が底の浅いものに終わっているのは「死を越えた向こうまで考えられるところの宗教的な次元」(4頁)を考慮に入れていないからである。だから死生観と銘打たれる。本書ではまず議論の大前提となるキリスト教的な神とはいかなる方かが論じられる。唯一神信仰は、人間が主体である拝一神信仰とは違い、主体である神の啓示によって生まれた信仰である。神は創造者であり、人間はその被造物である。そこに契約関係が生まれる。神は、神から離反した人間を永遠の命に与らせるために、御子と聖霊を通して贖いの業を行う。
 続いて、人間はどのような存在として造られているのかが論じられる。創造の究極の目的は神と人間との永遠の交わりである。しかしなぜ有限である人間が神の永遠性に与ることができるのか。著者はその答えを、人間だけが長期記憶能力を付与された存在であるという点に見出す。アウグスティヌスは、過去を記憶し、現在を直視し、未来を期待する精神の働きを重視した。人間は過去の体験を時系列で並べて記憶することで時間意識を持ち、更に責任意識を持ち、罪や死を理解する。しかし人間の記憶は死をもって終わる。この有限性を克服するものは神の記憶である。「神が彼の魂のことを永遠に御記憶の中に留め置いてくださるのであれば、その限り、彼は神の中で生き続けている」(86頁)。そしてこの神の記憶に与る上で重要なのが罪の赦しである。
 著者はバルトの贖罪論を、刑罰代受説を徹底させた審判代受説であると見る。イエスの裁判において最後の審判は既に下された。私たちはただこの事実を受領し応答するだけでよい。「もし信じるなら救われる」と語るなら、私の信仰が救いの条件になるという誤解を招く。キリストによる最終審判がなされたことにより、死はもはや呪いの死ではなくなる。死は永遠の生命への通過点、天国への門となった。伝道する教会の時(中間時)とは、「(存在的な)和解の(認識的な)啓示が進展しつつある時」(195頁)である。できればこの点で、バルトでは万人救済説にならないかとの批判に存分に論駁していただけたら良かったかと思う。人間は死を越えて永遠の生命へと招かれている。それを知ることの中に神によって造られた人間の真の幸福がある。
 本書には、自前の思索と言葉で想を練り、分かりやすい表現を見出そうと努める粘り強い著作家の姿勢が窺える。そこにはこの地球大の危機の時代に、キリスト教の垣根を越え、何としても福音を広く伝えようとする、長い経験を重ねた伝道者の願いが込められている。

芳賀力(はが・つとむ=東京神学大学学長)