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内容詳細

「神の詩」としてのイエスの十字架に対する讃美に「信仰詩」の可能性を求める聖書詩学の試み。

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書評

情熱と意欲あふれる問題提起の書

川中子義勝著

詩人イエス

ドイツ文学から見た聖書詩学・序説

加藤常昭

著者は東京大学大学院総合文化研究科・教養学部でドイツ文学、ドイツ思想を教える無教会キリスト者であり、日本キリスト教詩人会に属する。また繊細な筆致で絵本まで描く。このひとに会う者は、その澄んだ大きく開かれたまなざしと静かな口調に忘れがたく惹き付けられる。今度ある大学でバッハのカンタータについて語ります、とうれしそうに語る言葉に、その内に秘めた情熱を感じ取るであろう。音楽にも造詣が深いのである。

だが、その情熱はひたすら「言葉」に注がれる。短い「序」が、なぜ今聖書詩学なのかを告げる。賛歌も預言者の語法も「我」に対峙する「汝」を志向する二人称の世界を示す。この聖書の文学的な言葉遣いこそ、現代社会が失っているものである。特に詩人イエスが語られた言葉への憧れは切実である。続く八章に及ぶ本文が語る内容は一見多岐にわたる。書かれた機会、あるいは語られた場も多様であったのであろう。「詩人イエス」という短い章から始まり、ルターの讃美歌、ドイツ宗教詩、著者専門のカントと同時代の哲学者ハーマンと論旨が展開される。やがて六〇歳を迎える著者の研鑽は想像を越えて広く、そして深い。専門のドイツ文学、またハーマン研究の領域はもちろん、精緻を極める聖書学の領域にも踏み込むかと思うと宮沢賢治の物語詩「北守将軍と三人兄弟の医者」の興味津々たる分析にまで及ぶ。そこに至るまでの考察で藤井貞和の詩的分析論が紹介される。浅学の私などは、そこを読むだけでもこころが踊った。「本のひろば」に何度も寄稿してきたが、今回ほど与えられた字数の少なさを嘆いたことはない。二四〇ページほどの大著とは言えない本書の中枢に読者を導くのには、あまりにも足りず、嘆息するばかりである。

読み始めて大きなドイツの森に迷い込んだような思いをする者を思い遣ってか、著者は時々立ち止まって、今どこを逍遙しているのかわからせるために、自分の問題を何度も言い表し、またコンパスを示すように方向指示をする。そうすると、一見多岐に分かれた道を引き回されているように思われたのが、実は一筋の道を歩むように導かれていたのだということに気づく。たとえば終わりに近い第八章「譬えと物語り」の始めの部分(二〇二ページ以下)を読むと、そのような体験をする。しかし、途中を飛ばさないでゆっくりと各章を読むとよいのではないか。

著者は近代社会において「聖なるもの」を歌う力は失われ、精々「崇高なるもの」をようやく歌い得るに留まる「世俗化」が進んでいると見る。世俗化に伴い、神を歌うこともできなくなり、言葉の二人称的側面は希薄になり、自我が肥大化するばかりとなり、そこで自我の孤立と敵対の文化が生まれてしまう。教育者であり、また伝道者でもある著者が、こうした書物を一心に書いたのは、ただ単に学問的興味があったからというようなことではなくて、二人称による出会いと対話の文化をいかに回復し得るかという切実な関心が働き続けているからであったことがよくわかる。「心すべきは、諂いや恫喝の二人称で味方や信徒を拡大するという、結局は不特定多数の三人称に組み入れてしまう仕方を避けること。対峙者の自由を確保しながら、出会いの感動が状況や世界を改変するような二人称が希求される」(二〇三ページ)。著者の悲しみがわかるし、深く共感せずにおれない。

決して多くの読者を得ているわけではない文学的思索家ハーマンに、なぜ著者が惹かれ続けているのかということも本書を読んでよくわかった。あの啓蒙の時代に聖書によって言葉を獲得し、「霊」に生きたところにあのいささか難解な詩的世界が生まれたと言うのである。だがこの著者の言葉は決して難解ではない。最後にナチのもとでいのちを断った詩人クレッパーの言葉の美しい訳詩がそれを示す。「この夜へと私を導いた方が/明くる朝にもまた私を導く」。およそ信仰に根ざす愛と自由の言葉を回復したいと願う方たちに、必読の書として本書を推薦する。いい本に出会った! としみじみ思う。ありがとうございました。

(かとう・つねあき=神学者)

(A5判・二四二頁・定価四七二五円[税込]・教文館)

『本のひろば』(2010年5月号)より