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内容詳細

神の言葉の神学の系譜に立ち、罪人を義とする神の絶対的な優位性を語りながら、義とされたキリスト者において現実化する「聖霊による神の内在」に着目し、人間の信仰生活の主体性を展開させる意欲的な試み。現代オランダを代表する改革派神学者による誠実で徹底した思索の書。

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書評

神学を対話する喜び

深井智朗

 久しぶりに面白い本を読んだ。その面白さは読者である私の先入観が次々と壊されて行く面白さである。ドイツ語の神学の世界では『組織神学』や『教義学』というタイトルを選ぶ代わりにあえて『信仰論』と名づける前例がある。シュライアマハーやトレルチの試みがそれである。本書はそのような伝統を意識しているのかと思って読み始めたが、まったく違う世界へと導かれた。神学体系について論じるのでもなく、「実践神学再構築試論」とあるにもかかわらず実践神学の概説書でもない。

 さらに言えば「神の言葉の神学」の系譜の最長老の神学者が翻訳したのであるから信仰における神の主権、神の側の超越性、啓示の優位性などの議論が強調されているかと思えばそうでもない。オランダ語のタイトルは『神を信じること』だという。オランダで牧師養成の責任を負っておられる実践神学者ヘリット・イミンク氏はこの世俗化され、人々が教会から離れ、信じるということがさまざまに論じられ、牧師になるということさえさまざまなチャレンジの中にある時代の中で、「信じる」ということそれ自体について語ろうとする。彼の大変博学な知識を駆使して、また魂に染み入るような慰めの言葉をもって。

 著者の関心事は「生活化されている信仰」(二一頁)である。「日常の憂いや願いを抱きながら生きているただなかで、自分の信仰を実践し、神を信頼して生きている……このような生活化されている信仰」である。しかし問題は、それはどうしたら可能になるのか、ということである。私たちが神を知り、救われ、この信仰に生きること、礼拝者となることが喜びとなるのはなぜなのか、そこで起こっていることは何であるのか。それは神学の根本問題であるだけではなく、信仰者として生きて行く上で誰もが考えることではないだろうか。

 神学の歴史を顧みると、信仰のはじまりについては一方で神の側の主権の優位性が語られてきた。「神の言葉の神学」はそのひとつの事例である。他方で、「神の言葉の神学」が批判したのは、人間が生まれながらにもっている神認識の能力、あるいは最近流行の特定の神や宗教的志向を持たない人間のスピリチュアリティーなどに還元される人間の側の宗教的能力の強調である。弁証法神学の自由主義神学批判、自然神学論争などはその一例である。

 しかしイミンク氏は、それらの対立的な議論の中にある誤解に基づく極端な傾向をまず否定する。神と人間との出会いにおける神の優位性を強調することが、人間の信仰や生き生きとした信仰生活をあたかも否定しているかのように語られることの誤りを指摘し、他方でシュライアマハー(二一三頁以下)やティリヒの議論を丁寧に分析し、内実のない神への信仰を語ることの問題性と不十分さを指摘し(第九章と第一〇章)、その上で「信仰という人間の行為の存在に関わる特質と、神の臨在と、そのいずれの側面にも目を注ぐ」信仰論を再構築しようとしている。それは他者であり主体としての神と、その神と出会い、信仰に生きる人間の主体との相互作用、コミュニケーションとしての信仰である。

 本書は教義学や実践神学の教科書ではない。あえて言えば対話の相手である。著者の結論については異なった意見も当然あるに違いない。著者が生きているオランダの教会と日本の教会の現実は異なっている。キリスト教的が崩壊して行くプロセスの中にある欧米と、明治以後その崩壊のプロセスの中から生まれた神なき啓蒙主義を受け入れた人々の中で、土台作りからはじめている日本の教会とでは状況が異なっているとも言える。しかしだからこそ対話が始まるのだと思う。著者自らの立場はカール・バルトと、より自由な伝統に属するパウル・ティリッヒの「中間にある健康な改革派神学」だという。よい対話の相手ではないか。

(ふかい・ともあき=金城学院大学教授)

『本のひろば』(2012年12月号)より