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内容詳細

6名の気鋭の論者が、信仰と神学、芸術と政治等の多様な視点から宗教改革に迫る。現代世界に巨大な影響を及ぼし続けるこの運動の本質は何だったのか、そこから私たちは何を継承すべきか。多くの示唆に満ちた書。

2017年に開催され大きな話題を呼んだ連続講演会の記録。

 

【目次】

Ⅰ ルターの生涯と思想

ルターの生涯と宗教改革――宗教改革のはじまりの「はじまり」・・・小田部進一

恩寵義認――ルター神学の核心・・・江口再起

Ⅱ 宗教改革と芸術

宗教改革と美術――イメージの力・・・遠山公一 [正誤表]

ルターの音楽観とその受容――ヨーハン・ゼバスティアン・バッハまで・・・佐藤望 [正誤表]

Ⅲ 宗教改革と現代

ルターの戦争観と現代・・・野々瀬浩司

世界史の中の宗教改革・・・近藤勝彦

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書評

宗教改革の原点と現代を結ぶ絶好の良書

出村彰

 またしても、五〇〇年を記念するのに絶好な良書が加えられたことに感謝のほかない。そもそも、四〇〇年記念のハンス・フォン・シューベルト『宗教改革の世界史的意義』(邦訳は石原謙、一九三一年)、戦後間もない『マルティン・ルター』(熊野義孝、一九四七年)、神学生時代の『宗教改革の神学』(北森嘉蔵、一九六〇年)、さらに後には、ベイントン史学、と触れ続けてきて今がある評者の世代にとって、本書もその好個の事例であるような宗教改革への視野の拡がり、考究の深まりにはただ驚きあるのみである。「あとがき」によれば、昨年六月、連日開かれた公開講演会の内容の集大成の由、上記のような評者の感慨を実証するに十分である。

 全体は大きく三部に分かたれる。「ルターの生涯と思想」、「宗教改革と芸術」、および「宗教改革と現代」である。勝手な言い直しになるかもしれないが、先ずはルターの信仰内容の神学的考察、次いで、人間の美的感性への波及の論述、最後に、時系列の中で生きるほかないわれわれにとって、宗教改革の遺産継承の問題、とでもなろうか。勝手な読みようでしかないとしても、結果的には縦糸と横糸の織りなす見事な構成となった。「ルターの生涯と宗教改革」による導入を担当する小田部進一氏は、一昨年刊行の『ルターから今を考える』(日本キリスト教団出版局)によってルター神学の新しい切り口を実証したが、今回も大きな期待に背かない。対して、すでにベテランのルター研究者江口再起氏は、「恩寵義認──ルター神学の核心」によって、「善行はなくとも、せめて信仰によって」と、信仰さえもおのれの義の拠り所とする危険を鋭く指摘する。

 第二部は、端的に信仰、さらに広くは宗教と感性(視覚や聴覚など)の関わりを問い直そうとする。「宗教改革と美術──イメージの力」の論者遠山公一氏、「ルターの音楽観とその受容──ヨーハン・ゼバスチャン・バッハまで」の論者佐藤望氏の両氏は、紹介によって「きわめ」付きの研究者、また演奏者であることを承知させていただけた。残念ながら、すべて感性的なものには極度に消極的な改革派の流れに属する評者には(私事ながら、亡父の世代のごときには、讃美歌が下手なほど福音的であり、どれでも同じ曲で歌えるのが理想だったとか──似非ピュリタニズムだろうか)、「評」などの資格は皆無である。しかも、「霊も魂も体も」全からんことを祈った使徒パウロの言葉に徴しても、教えられるところ多大である。

 第三部は、本書の題名にもっとも近い「宗教改革と現代」である。前半の「ルターの戦争観と現代」では、執筆者野々瀬浩司氏が前任校(防衛大学校)での体験にも事寄せつつ、人類史を一貫する「戦争=抗争」の問題をキリスト教史から論説する。絶対非戦、対蹠的な聖戦、あるいは義戦、普遍性を持つ正戦──他人ごとでは済まされない現代の課題である。最終章は、前東京神学大学学長近藤勝彦氏による「世界史の中の宗教改革」となる。宗教改革とは、一六世紀を挟んで数百年にもわたって西欧を中心とした歴史的転向点であると同時に、いつでも・どこでも問われるべき共通の価値として「自由」を希求する旅である所以が説かれる。永遠課題としての宗教改革とでもなろうか。

 この一両年だけでも、広い意味で宗教改革を主題とする刊行物は、文字どおり「汗牛充棟もただならぬ」数だろう。評者もいくつかの書評(『宗教改革と現代』、『旅する教会』など)の依頼に応じたが、若手執筆者の輩出にはただ驚きを禁じえない。それでも率直に言って、評者として本当に知りたいのは、去年の「あの」記念日に世界各地で、ことにヴッテンベルクで、あるいは長崎浦上天主堂で開かれた、カトリックとプロテスタントとの「合同礼拝」がどのように進められたのか、中でもミサ聖祭と聖餐式とはどうだったのだろうか、である。神学論は尽くされ、互いにどうしても譲れない論点もほぼ明らかとなった。残るのは、この時点まででも得られた合意点が、礼拝・牧会・伝道の現場で、信徒層を巻き込んでどう活かされるうるのかではないだろうか。ただの「ないものねだり」ではなく、期待するところ多大である。

(でむら・あきら=東北学院大学名誉教授)

『本のひろば』(2018年11月号)より