教文館物語
はじめに
1885(明治18)年、アメリカから派遣されたメソジスト教会の宣教師たちが、伝道用の書籍やトラクト(小冊子)を販売したり、出版活動をするための組織を作ったのが、教文館の始まりです。そして1891(明治24)年には、銀座に書店を開店、それ以来銀座の老舗書店・出版社としてお客様に親しまれてまいりました。関東大震災、太平洋戦争と、度重なる試練をくぐり抜けて現在に至る、教文館の歴史をご紹介します。
教文館事始め
教文館を生み出したのは、アメリカから日本宣教のため派遣されてきたメソジスト監督教会(Methodist Episcopal Church,当時「美以教会」「美以美教会」と呼ばれた)の宣教師たちでした。キリスト教禁教の高札が降ろされた1873(明治6)年、日本伝道の志に燃えた宣教師たちが相次いで日本に上陸しましたが、その中には、すでに中国伝道で経験を積んだR.S.マクレーほか4人の宣教師とその家族がいました。
かれらは宣教団を結成し、横浜、東京、函館、長崎に分かれてその働きをはじめましたが、1年もすると、賛美歌や信仰問答書、教会規則などの必要を感じ、さっそく翻訳に着手しました。
最初の書物と思われる伝道文書『真の神様乃御恵の端書』は1875(明治8)年、『メソヂスト教会問答』が次の年、J.C.デビソンの『讃美歌一』は1877(明治10)年に刊行されます。宣教団の伝道は進展を見せ、開始11年目の1884(明治17)年には、日本年会を組織することになります。教区も最初の4つから8つに増え、設立メンバーは、宣教師13名に加え、日本人牧師も19名になっていました。
真の神様乃御恵の端書
メソヂスト教会問答
讃美歌一
1885(明治18)年に第2年会が東京築地で開かれた折、I.H.コレル宣教師が、これまで雑書会社の名前で出版されたトラクトや書籍の配給・販売を管轄し、将来的には出版活動を行うための責任者を決めようという動議を提出し、一同の賛意の下、L.W.スクワイア宣教師が最初の出版代理人に選出されます。9月9日のことでした。これが教文館誕生の日です。
明治時代
築地時代から教文館は、美以美活版所という印刷所を併せて経営していましたが、1892(明治25)年に閉鎖、機械類を東京英和学校(のちの青山学院)実業部に貸与します。
1898年頃の店頭
この印刷所がまた、1900(明治33)年に教文館の事業に戻り、しばらくは青山印刷所として運営されますが、1906(明治39)年銀座に4階建ての建物が出来ると、その後背地に教文館印刷所として移転しました。
1906(明治39)年に建てられた新社屋
1906(明治39)年当時の1階店内
この当時の出版物には、教会の規則や賛美歌などのほかに、伝道用のトラクトが多いのに驚かされます。毎年20から30ほどの新刊が出されています。あとは、神学校の教科書とならんで、日曜学校の教課・教材です。
とくに、「萬国日曜学校学課」に基づく教文館刊行の教材はメソジスト教会に限らず他教派でも広く使われていました。また、1903(明治36)年にプロテスタント教会5派(日本基督教会、組合教会、浸礼教会、メソジスト教会、基督教会)共通の『讃美歌』が出来ると、教文館はその発行元として日本のキリスト教界に広く知られるようになりました。
明治末頃の製本所
明治末頃の教文館印刷所
1909年頃の小売部門従業員
1907(明治40)年、日本の主要な3つのメソジスト教会(メソヂスト監督教会、南メソヂスト監督教会、カナダ・メソヂスト教会)が合同し、日本メソジスト教会が誕生しますが、教文館は、教会の出版部門からは独立し、新たにメソジスト監督教会宣教団の管理のもと、さらに発展を続けることになります。
大正時代
宣教団の管理下で再出発した教文館が直面した最初の問題は、経営上の問題でした。銀座の表通りに立派な店を構えましたが、資金不足に悩みます。そこで、先に述べた印刷所を売却することになり、福音印刷に引き継いでもらいました。
福音印刷は、横浜に本社があり、当時は聖書の印刷を一手に引き受ける評判の高い印刷所で、銀座に支店がありました。その支店長として赴任してきたのが、村岡儆三(むらおかけいぞう)でした。のちに彼は、安中はな(後の村岡花子)と結婚します。
大正時代の教文館は、出版社としてよりも、店の販売に重点が置かれ、和洋書・輸入文具などが銀座の街に彩を添えることになります。アンダーウッド社製のタイプライターや、ビクター・レコードの代理店となってレコードの販売なども手がけています。
実は、出版活動が低下したのには、理由があります。それは、次に述べる日本基督教興文協会の存在があったからです。
日本基督教興文協会の発足
日本基督教興文協会は1913(大正2)年に生まれた出版社です。
これは1900(明治33)年に結成された駐日宣教団の連合組織である日本ミッション同盟が、日本におけるキリスト教文書の欠けを補い、それを充実させるために各派宣教団に呼びかけて共同出資し、日本側のアドバイザーも加えて営まれたエキュメニカル(超教派)な出版社で、南メソジスト監督教会宣教師S.H.ウェンライト博士が主幹を務めました。
教文館の経営母体であるメソジスト監督教会宣教団も、これに出資しており、学術的にも水準の高い出版を目指していました。
築地の日本基督教興文協会
ウェンライト博士夫妻
興文協会編集室
また、1917(大正6)年には、「婦人・子ども部」ができ、ボサンケット女史の指導のもと、「小光子」という子ども向けの雑誌が刊行され、家庭読み物などが翻訳されたりして、幅広い読者を得ています。
安中はな(村岡花子)は「婦人・子ども部」創設の年にデビュー作『爐邉(ろへん)』をこの興文協会から出版し、2年後には編集者としてスタッフに迎えられます。
当時興文協会は築地に事務所があり、出版物は、教文館が発売元になっていました。しかも印刷所は福音印刷で、教文館のすぐ裏にありました。そのような関係から、村岡儆三と安中はなの出会いがあったのです。
関東大震災による組織合併
教文館と興文協会の両方を襲い、大きな危機をもたらしたのは、1923(大正12)年の関東大震災でした。
銀座にあった教文館も、築地にあった興文協会も家屋を失い、所有していた在庫や印刷物の鉛版もすべて燃えてしまいます。
震災後の教文館
教文館は年末には同じ場所にバラック建ての店を作り営業を再開します。また、興文協会も青山に事務所を移し、出版活動は継続しましたが、先の見通しを立てることができずにいました。
そのような中、教文館側の申し出により、両者の合併の話が持ち上がりました。興文協会のオーナーであるミッション同盟では、新しい組織を作って両者を統合し、一つの事業体にする案がまとめられ、1926(大正15)年に合併が完成します。その際、日本名は「教文館」とし、英文名は興文協会が使用していた“Christian Literature Society of Japan”を名乗ることになりました。
昭和時代前期
合併後、残された課題が二つありました。一つは、固有の法人格の取得であり、もう一つは、新しいビルの建築です。この背景には、日本のキリスト教出版事業の宣教師や外国宣教団からの独立ということと、当時ますます険悪になってきた日米関係があったようです。
そのような状況の中で、新しいビルの建築にすべての精力を注いだのは、ウェンライト博士でした。教文館の旧社屋の背後地の借地権を得て、その上アメリカ聖書協会に働きかけ、アントニン・レーモンドの設計になる現在の9階建ての共同ビルが完成したのは、1933(昭和8)年9月のことでした。落成式(12月)には、当時の大臣やアメリカ大使も列席したと伝えられています。
1931年 教文館ビル骨組み
1933年に施工した教文館ビル
1933年 2階売場
もう一つの懸案であった法人格の取得は、教文館は文書伝道を使命としており、営利を目的としていないというところから、財団法人となることを願っていましたが、認可されず、やむなくビル竣工の年3月に株式会社となり、教文館の非営利的側面、すなわちキリスト教文書伝道の働きを維持するために、別に日本キリスト教文化協会が、教文館とコインの裏表のような存在として設立されました。
この文化協会は戦後1949(昭和24)年に財団法人として認可され、2012(平成24)年には公益財団法人となり、現在に至ります。設立時の文化協会の理事としては、当初ミッション同盟から12名が、日本基督教連盟から12名が選ばれ、その中から教文館の取締役が選出されるという仕組みでした。最初の教文館社長(当時は会長と呼んだ)に選ばれたのは長尾半平でした。
初代会長 長尾半平
新しい出発をした教文館の最大の出版物は『植村正久と其の時代』の刊行でした。これは、植村正久の娘婿に当る佐波亘が中心になって収集した史料を元に編纂された明治・大正期の日本キリスト教史資料集で、1937(昭和12)年から38年にかけて全5巻が、引き続いて2冊の別巻が1943(昭和18)年までに刊行されました。
『植村正久と其の時代』
社長には、長尾につづいて田川大吉郎が、その後は瀬川寿郎が引き継ぎます。戦争中は新生教文館の生みの親ウェンライト博士もアメリカに帰国し、日本人社員だけで戦時下のさまざまな圧迫と危機をかいくぐらなければなりませんでした。出版統制を避けるため、一時出版活動も停止したようですが、1944(昭和19)年には出版部のみ新教出版社に統合されます。しかし店は営業を続け、二度にわたる空襲による罹災も、社員の努力で類焼を免れたと記録されています。そしてやがて終戦を迎えます。
1950年頃 教文館ビル
戦後(昭和時代後期)
戦後は、帰国した宣教師が残した外国書籍の蓄えなどもあり、また一時、アメリカのニュース雑誌「タイム」の独占販売権を入手したことによって好調な滑り出しをしました。しかし、宣教師たちが再び来日し、教文館ビルの7階から9階をクリスチャン・センターにする構想を立ち上げたことに伴う軋轢や、輸入事業の失敗から急速に経営危機を迎えます。1954(昭和29)年のことでした。
1947年 ライフ誌の販売
1947年 ライフ誌の販売
瀬川寿郎を継いだ藤川卓郎が社長を辞任、教文館再建のために会長として迎えられたのが、芦田内閣で大蔵大臣を経験した北村徳太郎でした。やがて56(昭和31)年に当時キリスト新聞社の副社長であった武藤富男が専務として招かれ、再建の実務に取りかかります。
武藤富男は、ウェンライト博士を信仰の師と仰ぎ、裁判官から旧満州国の官僚を経験した人物であり、山積していた係争事件や負債の清算に見事な手腕を振るい、屋上に広告塔を設置するなどして、ほぼ6年をかけて再建を軌道に乗せ、1962(昭和37)年に社長を退任します。
この時代には、大型企画が盛んに出版されました。『旧約新約聖書語句大辞典』(1959〔昭和34〕年)、教文館版「内村鑑三全集」(1960-73〔昭和35-48〕年、聖書注解全集・信仰著作全集・英文著作全集・日記書簡全集)、『キリスト教大事典』(1963〔昭和38〕年)、「新渡戸稲造全集」(1969-70〔昭和44-45〕年)などです。
またこの間、教文館卸部の設立と、1967(昭和42)年には、それを母体とした日本キリスト教書販売株式会社(通称:日キ販)の創設という出来事もありました。
1962年 教文館ビル
しかし、これで戦後の経営危機が去ったわけではありませんでした。1971(昭和46)年に再び危機を迎えます。これに対処するために呼ばれたのが、日キ販の専務をしていた中村義治でした。
中村は1949(昭和24)年教文館に入社、戦後最初の経営危機の時には労働組合を結成し、その後、設立に尽力した日キ販に移籍し、同社専務になりました。その人望と能力を買われ、1972(昭和47)年に教文館社長に就任、再建のための長い道のりを歩み始めました。それまで2階にあった和書とキリスト教書の売場を分離させ、キリスト教書を別の階層に移して、和書売場を拡充し、その活性化のために大きな力をふるいました。
この時代には、著作集の刊行開始が相次ぎ、大事典も出版されています。『アウグスティヌス著作集』(全30巻・別巻2、1970-2023〔昭和45-令和5〕年)や『宗教改革著作集』(全15巻、1983-2003〔昭和58-平成15〕年)、『日本キリスト教歴史大事典』(1988〔昭和63〕年)などです。
1971年頃 教文館ビル
この時代にも次々と著作集や事典の刊行が相次ぎます。主なものだけでも、アウグスティヌスや宗教改革者の著作集、『日本キリスト教歴史大事典』(1988〔昭和63〕年)、『旧約新約聖書大事典』(1989〔昭和64〕年)などが出ています。
1988年4月9日 店頭販売の様子(中央・中村義治、右側・森岡新)
平成時代以降
平成時代はバブル景気中にその幕を開けます。出版界の好景気にも押され、教文館の売り上げも伸びていきます。
しかし、バブル経済崩壊後、1996(平成8)年を境に出版業界全体が冬の時代を迎えました。その中で、中村は、ビル内にカードや雑貨を扱う「エインカレム」や「子どもの本のみせ ナルニア国」という特色ある売場や、多目的催事場「ウェンライトホール」を創設し、日本の書店業界にも大きな功績を残しました。その後、2005(平成17)年からはヨルダン社を経て出版部部長となっていた渡部満が社長となり、2025(令和7)年には、和書部で研鑽を積んだ森岡新が社長を引き継ぎ、現在に至ります。
現在の教文館ビル(撮影:2026.4.27)