文学の中の教文館
芥川龍之介
「彼 第二」
1927(昭和2)年1月「新潮」(第24巻第1号)初出。
この作品の「彼」とは、芥川が22歳(大正2年)のときに出会ったアイルランド人の新聞記者ジョーンズのことである。芥川は銀座が好きで、学生時代から銀座のさまざまな場所に出没し、またそのことを複数の作品に書き留めている。教文館はこの作品のように実名で登場したり、「銀座の或書店」「聖書会社」などという表現で、芥川の作中、何度か登場している。
ちなみにこの作品が発表された半年後の7月24日に、芥川は睡眠薬を大量に飲んで自殺する。芥川の末期の作品には、彼の宗教観や死生観が生々しく現れており、大変興味深い。
■「彼 第二」より
彼は突然口調を変えBrotherと僕に声をかけた。
「僕はきのう本国の政府へ従軍したいと云う電報を打ったんだよ。」
「それで?」
「まだ何とも返事は来ない。」
僕等はいつか教文館の飾り窓の前へ通りかかった。半ば硝子(ガラス)に雪のつもった、電燈の明るい飾り窓の中にはタンクや毒瓦斯(どくガス)の写真版を始め、戦争ものが何冊も並んでいた。僕等は腕を組んだまま、ちょっとこの飾り窓の前に立ち止まった。
「Above the War ―― Romain Rolland ……」
「ふむ、僕等にはaboveじゃない。」
彼は妙な表情をした。それはちょうど雄鶏の頸(くび)の羽根を逆立てるのに似たものだった。
「ロオランなどに何がわかる?僕等は戦争のamidstにいるんだ。」
独逸(ドイツ)に対する彼の敵意は勿論僕には痛切ではなかった。従って僕は彼の言葉に多少の反感の起るのを感じた。同時にまた酔いの醒めて来るのも感じた。
「僕はもう帰る。」
「そうか?じゃ僕は……」
「どこかこの近所へ沈んで行けよ。」
(『芥川龍之介全集6』ちくま文庫、1987年、130-131頁)
明治末期の教文館周辺。左側の建物の壁面に「教文館」の文字が見える
(このビルは1923〔大正12〕年9月の関東大震災により焼失)。
井上ひさし
「東京セブンローズ」
1982(昭和57)年「別冊文藝春秋」初出。
この作品は日記文学の形式を借りつつ、終戦前後にかけての社会的・人心的混乱をバックグラウンドとし、占領軍の「日本語ローマ字化計画」の粉砕のために立ち上がった主人公と七人の女性の活躍を描いた力作である。
主人公たちがGHQと渉り合いながら日本語を守っていこうとする姿からは、「祖国とは国語のことである」というエミール・シオランの名言が想起される。この作品自体が徹底して歴史的仮名遣い(旧漢字・旧仮名遣い)で書かれていることからも、著者の日本語への愛着と見識が並大抵のものではないことに畏敬の念を禁じ得ない。
東京大空襲によって東京の町並みはほぼ壊滅状態となったが、教文館は辛うじて爆撃と類焼を免れ、1946(昭和21)年にはアメリカから贈られて来た聖書の販売を開始している。この作品の中でも、教文館は被災を免れたビルとして、端役ではあるが舞台登場の栄誉を与えられている。
■『東京セブンローズ』より
本鄕バーの元主人が小耳にはさんだところでは、先づ都が「聯合軍兵士やこれからどんどん訪れる外國人の好みに投じた立派な土產品を豐富に取り揃へて彼等の旅情󠄁を慰めなければならない」と言ひ出したのだといふ。指定販賣店は、日本橋、新宿、銀座の三越はじめ、銀座、淺草の松屋、上野、銀座の松坂屋、日本橋白木屋、伊勢丹、髙島屋、藏前久月總本店、銀座大和商會、神田尙美堂、服部時計店、敎文館、帝國ホテル內御木本など三十七店がすぐに決まった。(369頁)
「文子と武子、それから牧口加世子さんと黑川芙美子さん、この四人は帝國ホテルに女給仕として入つてゐる。山本酒造店のともゑさんと古澤の時子さんは角〔かど〕の兄のお妾さんだつた美松家のお仙ちやんと一緖 に銀座四丁目の敎文館四階の日本水道株式會社淸算事務所に勤めてゐる。それぞれ結構な勤め口だ。その勤め口を捨てて團扇屋の女小僧になれとはとてもいへないね」。(371頁)
「言語課長といふのは、その海軍少佐のことですか」
「さう、GHQ民間情󠄁報敎育局の言語課長兼言語𥳑略化擔當官。何でも漢字や片假名平假名をすべて廢止して、日本語の文字をローマ字にしてしまはうと主張してゐる男ださうだ。〔……〕」
小林事務官が去つた後も、自分はずいぶん長い間、席を立たずにゐた。小一時間もそのまま凝〔じつ〕としてゐたらうか、やがて自分は意を決して立ち上り、通用門から銀座へ向かつた。敎文館四階の日本水道株式會社淸算事務所で聞けば少くともお仙ちやんが噓をついてゐたかどうかはわかる。(516頁)
(『東京セブンローズ』上巻、文春文庫、2002年)
終戦直後の銀座。左側、服部時計店の並びに教文館 (当時4階に「日本水道株式會社淸算事務所」があったという記録は発見されていない)
終戦直後の銀座中心地。TOKYO PX(進駐軍専用の指定販売店)正面
昭和27年頃の銀座通り。左側、教文館。右側、GHQに接収された松屋 (「TOKYO PX」の文字が見える)
夏目漱石
「過去の匂い」『永日小品』より
1909(明治42)年「朝日新聞」初出。
漱石は明治33年6月から36年1月まで、英語研究のためイギリスに留学し、34年4月に長尾半平(1865-1936)と同じ下宿先で出会い、意気投合する。当時の想い出を書いた『永日小品』は、『三四郎』の連載のかたわら執筆された。
「過去の匂い」に登場する「K君」について、『三四郎』のモデルである小宮豊隆(1884-1966)は、「K氏は、このときいっしょであった長尾半平と、後の下宿がいっしょであった田中某とが、一つの人物に搗き交ぜられているのではないかという気もするが、精しいことは分からない」と書いている。
なお、長尾半平は台湾総督府勤務・鉄道省理事・東京市電局長・衆議院議員を経て、昭和9(1934)年に教文館初代会長に就任。「教会合同運動」や「禁酒運動」に熱心に取り組んだことでも知られている。
■「過去の匂い」より
老令嬢が出て行ったあとで、自分とK君は忽(たちま)ち親しくなってしまった。K君の部屋は美しい絨氈(じゅうたん)が敷いてあって、白絹の窓掛けが下がっていて、立派な安楽椅子とロッキング・チェアが備え附けてある上に、小さな寝室が別に附属している。何より嬉しいのは断えず暖炉(ストーブ)に火を焚いて、惜気もなく光った石炭を崩している事である。
これから自分はK君の部屋で、K君と二人で茶を飲むことにした。昼はよく近所の料理店へ一所に出掛けた。勘定は必ずK君が払ってくれた。K君は何でも築港の調査に来ているとかいって、大分金を持っていた。家にいると、海老茶の繻子に花鳥の刺繍(ぬいとり)のあるドレッシング・ガウンを着て、甚(はなは)だ愉快そうであった。これに反して自分は日本を出たままの着物が大分汚れて、見共(みとも)ない始末であった。K君は余りだといって新調の費用を貸してくれた。
二週間の間K君と自分とは色々な事を話した。K君が、今に慶応内閣を作るんだといったことがある。慶応年間に生れたものだけで内閣を作るから慶応内閣というんだそうである。自分に、君は何時(いつ)の生れかと聞くから慶応三年だと答えたら、それじゃ、閣員の資格があると笑っていた。K君は慥(たし)か慶応二年か元年生れだと覚えている。自分はもう一年の事で、K君とともに枢機に参する権利を失うところであった。
(『夢十夜 他二篇』ワイド版岩波文庫、2007年、96-97頁)
石井滿著『長尾半平伝』より
〔教文館会長時代の長尾半平〕先生はヨーロッパで、ロンドン、パリ等に滞在して勉強、見学をされた。
ロンドンに於て、丁度留学中の夏目漱石と一緒になつた。この事は漱石全集の日記中の中にも
“某日、終日長尾君と話す”
或いはまた
“或日、長尾君と散歩す”
又別な日には
“パリに於ける長尾君より来信、其の晩長尾君に手紙を書く、借金の為なり”
と云ふ様な記事が出て居る。
かう云ふ訳で、後の文豪夏目漱石と長尾先生とは肝胆相照して交際されたものであつた。元来文部省から洋行させられた夏目さんは旅費も充分ではない。然るに台湾総督府から公用で出張した先生は、相当に旅費も豊富である。それ故に何時でも
『夏目君、食事に行きませう』
かう云つて長尾先生がさそつたものである。
(『長尾半平伝』石井滿、教文館、1937〔昭和十二〕年、60頁)
教文館事務室の長尾半平(昭和10年)
永井荷風
「断腸亭日乗」
1951(昭和26)年『荷風全集』第19巻(中央公論社)初出。
1920(大正6)年から1959(昭和34)年までの40年間にわたって書かれた近代日本の代表的日記文学『断腸亭日乗』からは、戦前・戦後の飾らない生活風景や世情に対する荷風独自の批判精神を読みとることが出来る。
荷風は当時の東京の二大繁華街であった浅草と銀座に頻繁に出入し、さまざまな人々と会合しているが、銀座での拠点の一つが 教文館ビルの中にあった冨士アイスであった。
本書の中に「不二アイス」「フジアイス」「不二地下室」等の名前で数多く登場するこの店は、昭和初期に深川に工場を持ち、各地に車で運んで日本で初めてアイスクリームの大量生産販売を行っていたことで評判の会社で、銀座の店舗はレストランも兼ねて食事を楽しむことができた。荷風はここで気の措けぬ友人達と夕飯を共にしながら、食後のアイスクリームの涼味にしばし時代の憂さを忘れていたのかもしれない。
■「断腸亭日乗」より
(昭和十二〔1937〕年) 五月十一日。晴れて南の風つよし。午後日高君来訪。閑話刻を移す。夜不二地下室にて銀座の諸氏に会ひ、烏森稲荷の縁日を歩む。空庵主人仙人掌を購ふ。(24巻、42頁)
(昭和十六〔1941〕年) 五月初五。晴。午後銀座教文館にてアンクルトムの家〔『アンクル・トムの小屋』〕を購はむとせしが無し。土州橋より浅草に至り踊り子と共に夕餉を中西に喫してかへる。(24巻、512-513頁)
(昭和十八〔1943〕年) 十月十二日。晴。(略) 数日前より毎日台所にて正午南京米の煮ゆる間仏蘭西訳の聖書を読むことにしたり。米の煮ゑ始めてより能くむせるまでに四五頁をよみ得るなり。余は老後基督教を信ぜんとするものにあらず。信ぜむと欲するも恐らくは不可能なるべし。されど去年来余は軍人政府の圧迫いよいよ甚しくなるにつけ精神上の苦悩に堪えず、遂に何等か慰安の道を求めざるべからざるに至りしなり。邪蘇教〔耶蘇教〕は強者の迫害に対する弱者の勝利を語るものなり。この教は兵を用いずして欧洲全土の民を信服せしめたり。現代日本人が支那大陸及南洋諸嶋を侵畧せしものとは全く其の趣を異にするなり。聖書の教るところ果して能く余が苦悩を慰め得るや否や。他日に待つ可し。(25巻、159-160頁)
(引用はすべて『荷風全集』岩波書店、1994年より)
左入口脇に「冨士アイス」看板。1階ウィンドウにロゴマーク「富士山にスプーン」、2階に「KYO BUN KWAN」「教文館」の文字が見える
富士アイス店内(教文館1階)
富士アイス店内(教文館地下1階)
震災直後に建てられた木造2階建ての教文館店舗の2階で営業していた富士アイスは、レーモンドのビルが建つと、地上1階と地下1階にテナントとして入り、戦後の1955(昭和30)年頃まで続いた。メニュー表も日英両語併記になっており、モダン・ライフの先端として人気を博した。
原民喜
「死のなかの風景」
1951(昭和26)年5月号『女性改造』初出。
原は11年間連れ添った最愛の妻を1944(昭和19)年9月に病で喪う。「もし妻と死別したら、1年間だけ生き残ろう。悲しく美しい1冊の詩集を書き残すために」と書いていた原は、その翌年の8月6日に爆心地に近い広島の生家で被災する。
被爆者として自らの体験を書き残すという使命に目覚めた原は、その後代表作『夏の花』をはじめ、妻の死や被爆体験を綴った数々の作品を発表するが、1951(昭和26)年3月にあたかもすべてをなし終えたかのように、鉄道自殺を遂げる。
「死のなかの風景」この作品は妻が息を引き取ってから、葬儀を終え、広島に帰郷するまでの原の心象を、戦争末期の生活風景とともに克明に描いており、教文館はその最後の部分に登場する。
■「死のなかの風景」より
ある日、彼は国道の方から路を曲って、自分の家の見えるところを眺めた。叢(くさむら)の空地(あきち)のむこうに小さな松並木があって、そこに四五軒の家が並んでいる。あの一軒の家のなかには、今もまだ病妻の寝床があって、そして絶えず彼の弱々しい生存を励まし支えていてくれるような気がするのだった。
引越の荷は少しづつ纏(まと)められていた。ある午後、彼は銀座の教文館の前で友人を待っていた。眼の前を通過する人の群は破滅の前の魔の影につつまれてフィルムのように流れて行く。彼にとって、この地上の営みが今では殆ど何のかかわりもないのと同じように、人々の一人一人もみな堪えがたい生の重荷を背負わされて、破滅のなかに追いつめられてゆくのだろうか。暗い悲しい堪えがたいものは、一人一人の歩みのなかに見えかくれしているようだった。と不意に彼の眼の前に友人が現れていた。社用で九州へ旅行することになった友は、新しい編上靴をはいていて、生活の意欲にもえている顔つきなのだ。だが、郷里へ引あげてしまえば彼はもう二度とこの友とも逢(あ)えないかもしれないのだった。
「何だ、しっかりしろ、君の顔はまるで幽霊のようだぜ」
友は彼の肩を小衝(こづ)いて笑った。と、彼も力なく笑いかえした。彼は遠いところに、ひそかな祈りを感じながら、透明な一つの骨壷を抱えているような気持で、青ざめた空気のなかに立ちどまっていた。
(『夏の花・心願の国』新潮文庫、1973年、87-88頁)
「コレガ人間ナノデス」(『原爆小景』より)
コレガ人間ナノデス
原子爆弾ニ依ル変化ヲゴラン下サイ
肉体ガ恐ロシク膨脹シ
男モ女モスベテ一ツノ型ニカヘル
オオ ソノ真黒焦ゲノ滅茶苦茶ノ
爛レタ顔ノムクンダ唇カラ洩レテ来ル声ハ
「助ケテ下サイ」
ト カ細イ 静カナ言葉
コレガ コレガ人間ナノデス
人間ノ顔ナノデス
(『日本の原爆文学1』ほるぷ出版、1983年、233頁)
原爆ドーム脇に建つ原民喜の碑文
池澤夏樹
『また会う日まで』
2020(平成2)年~2022(平成4)年「朝日新聞」初出。
主人公・秋吉利雄の生涯を描きながら、明治から戦中戦後の日本を浮かび上がらせる歴史小説。秋吉利雄は、作者である池澤夏樹の大伯父(祖母の兄)にあたる。本作は、利雄の残した資料に基づく伝記と、日本の近代史を融合させた大作である。
1892年生まれの利雄は、クリスチャン(聖公会信徒)であり、天文学の学者であった。そして、第二次世界大戦には海軍軍人として参加した。この三つの資質を持つ彼が、どのように戦争に参加し、戦中戦後の日本を見つめたのか。利雄の葛藤を通して、いま私たちは何に向かって生きているのか、さまざまな問いが投げかけられている。
『また会う日まで』より(以下、■同)
■わたしが作った海図や天測暦は多くの将兵を死地に送り込んだ。敵の兵をも死なせることになった。/それは国が犯した過ちであってわたし個人のものではないと言うこともできる。終戦以来のこの一年あまり、そういう言説をいくつも目にした。/しかしわたしは、信仰の徒として、たった一人で主の前に立たなければならない。 (681頁)
秋吉利雄が戦中所属したのは、天測や海図製作などを担当する「水路部」であった。庁舎は築地にあり、通勤の様子が述べられる。
■本はよく買ってきた。築地の水路部からの帰路、銀座の教文館に寄って店内を歩く。ここは聖書関係の本が揃っていて、その他の雑書の棚もおもしろいものが多い。気の向くままに数冊買っては家に持ち帰り、夜ごと楽しく遊んだ。 (674頁)
最終章では、利雄の亡くなった後の家族について、娘・洋子の視点で紹介されており、聖書学者となった三男・輝雄は次のように述べられている。
■輝雄はイスラエルから妻の佳公子のためにとてもきれいな絵本を持って帰りました。/文章は『旧約聖書』の「雅歌」です。どうしてこんなものが『聖書』にあったのだろうというような奔放な恋の詩。/輝雄は『新共同訳聖書』の一翼を担ったしそれは大きな仕事だったのですが、「雅歌」だけは自分の言葉で訳したいとずっと思っていて人生の最後に実現しました。
――わたしの鳩/岩の割れ目、崖の陰から/出てきて顔を見せておくれ
声を聞かせておくれ/きみの声は耳に心地よく/きみの顔は愛らしい (708頁)
(『また会う日まで』朝日新聞出版、2023年)
秋吉輝雄訳の「雅歌」は、池澤夏樹が編者となり、輝雄が持ち帰った絵本の絵を用いて『雅歌―― 古代イスラエルの恋愛詩』として、 2012年に教文館から出版された。