【たくさんのふしぎ40th】🤔 『わたしが外人だったころ』

【たくさんのふしぎ40th】 🤔 (1995年7月1日発行)
『わたしが外人だったころ』
鶴見俊輔 文
佐々木マキ 絵
福音館書店 刊
2015年5月15日 発行
1430円(税込)
40ページ

戦時中アメリカで過ごした日々を振り返り、「きみも、わたしも。ほんとは外人じゃないか?」と問いかける。

哲学者である著者が若き日のアメリカでの暮らしや、その後の戦争体験を踏まえて語った物語。世界がきな臭い今こそ、一読の意味が深い1冊といえます。

1938年秋、16歳の鶴見さんはアメリカ合衆国のマサチューセッツ州コンコードという町の大学入学前の少年が生徒の全員寄宿制の学校にいました。
英語が話せない鶴見さんは、だいたいいつも黙っていました。すると、英語の話せないものは考える力がない、とみなされていたとか。それが当時のアメリカの常識だったそうです。それが3か月経ったころ、日本語が消えた。そして1年後、ぱったり日本人に会ったとき、口から日本語が出てこないことに驚きます。漢字は書くのが難しいので、だんだん日本語は不自由になっていきました。
それから大学に入って3年目、日本とアメリカの戦争が始まります。
その後、自分の意志で交換船に乗って日本に戻ってきました。交換船とは、戦争が起こったとき、その国に住んでいた相手の国の人々をお互い同じ数、もとの国に戻すものだそうです(はじめて知りました)。

ーー1945年8月15日。病気のためひとりで寝ていて、ラジオ放送で敗戦のことを知ったそうです。どうして生き残ったのか、その理由はわからない。何かしたから死ぬことをまぬがれたわけでもない。なぜ、ここに自分がいるのかがよくわからない。そのわからなさが鶴見さんの中にずっとあって、それがくらしを支える力になっているのだそう。
16歳から19歳の終わりまでを英語を使って日々くらしていたので、心の中では英語で考えてきた鶴見さん。日本では「鬼畜米英」という言葉が飛び交っていて、それは自分のことだとおびえていたそうです。

アメリカにいたとき、外人だった。そして鶴見さんは戦争中の日本にもどったとき、日本人を外人と感じて過ごしていたのだとか。日本人のなかで外人として生きていたことになると言います。

日本人だとか、外人だとかいうことに存在意義を見出すことの意味のなさを深く感じました。
「日本人は、外人にとりかこまれて、この世界でくらしているのに、日本人本位に考えるのでは、わたしたちは地球上に住みにくくなります」ーーこのことをよくよく考える必要があるでしょう。  (す)